イギリスの被害国”シエラレオネ”の歴史

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1~2月にかけてリベリア・シエラレオネ・ギニアを13日間旅行しました。

 

前回まではリベリアでしたが、今回からシエラレオネを紹介します。

 

シエラレオネの正式名はシエラレオネ共和国で、西アフリカの西部、大西洋岸に位置する共和制国家で、イギリス連邦加盟国です。。
北にギニア、南東にリベリアと国境を接し、南西は大西洋に面しています。

(赤は旅行した国)

 

シエラレオネは10年以上続いた内戦とHIV、エボラ出血熱、貧困などの影響で、世界で3番目に平均寿命が短い国になっています。
2018年度WHO報告で53.1歳 男性:52.5歳 女性:53.8歳です。

ちなみに世界1位はレソト52.9歳、2位は中央アフリカ53.0歳です。日本は世界一の長寿命で84.2歳。

 

特に2014年のエボラ出血熱流行ではシエラレオネは世界で一番多い感染者数14001人で、死者数はリベリアにつづき3955人の世界2位と大きな被害がありました。

 

 

次にシエラレオネ・英・米の大まかな歴史の流れを紹介し、シエラレオネがイギリスの被害国であることを説明します。

シエラレオネはイギリスの巧妙な政策の下、植民地化され、最後は現地人によってイギリス連邦の一員として独立しました。

 

欧米で奴隷貿易廃止を訴える中、解放奴隷を使って、アメリカがリベリアを、イギリスがシエラレオネを植民地化しょうとしました。

 

シエラレオネは欧米の奴隷貿易、その廃止後は英米の植民地として苦難の道があるのでした。

さらに、イギリスと距離をおくと一部の人に富があつまり、ダイヤモンド原石をめぐって内戦に突入しました。

 

奴隷貿易では、ポルトガルやスペインが最初、独占、オランダ、フランス、イギリスなどが参戦し、最後に勝ち残ったのはイギリス。

イギリスは三角貿易という莫大にもうかる仕組みをつくりました。

三角とはイギリス、アフリカ(奴隷捕獲国)に、北米または南米を加えたことです。

主な貿易のながれは次の通りです。

イギリス→銃器・工業製品→アフリカ→奴隷→北米または南米→綿花・コーヒー→イギリスという三角の流れをつくり、それぞれの3国が売りたい、欲しいという品目で貿易をしたことです。

具体的な内容

①イギリス

 欲しい:大量生産に必要な原料(綿花など)

 売りたい:産業革命で大量生産した工業製品、銃器

②アフリカ(主に西アフリカ)

 欲しい:黒人をより多く捕獲するための銃器

 売りたい:大量に捕獲した黒人奴隷

 ※奴隷貿易はアフリカが自国民を捕虜にし欧州に売っていましたので、

  欧州だけが悪いことはないです。この点があまり知られていないです。

③北米または南米

 欲しい:プランテーションの労働力(黒人奴隷、身体能力が高い)

 売りたい:プランテーションの作物(綿花、コーヒーなど)

 ※ブラジル、コロンビア、ジャマイカの主力輸出品がコーヒーとは三角貿易の

  遺産とは皮肉なことです。

 

 もう少し詳しく知りたい方は次からみてください。

 https://ameblo.jp/la-luna-sarah/entry-11614525438.html

イギリス人は奴隷貿易と同時に、産業革命による大量生産工業化、保険会社、鉄道業、観光業、アパレル業などビジネス拡大を行い、世界のビジネスリーダーとなりました。

これが大英帝国のはじまりで、その主な原資は黒人奴隷貿易の利益でした。

 

その儲かる三角貿易の仕組みにどっぶりはまって儲けたのがアメリカ(南部)。

 

アメリカ南部は大もうけしたのは、南米と違い、大もうけできたのは、黒人奴隷を夫婦で買い取ったためです。

夫婦だと子供を生んでくれるので、その分、黒人奴隷を買わなくてすみます。

近親相姦しないように農業主は多くの夫婦で買って、黒人コミュニティーをつくれば、その中で黒人奴隷が自然増加することを考え出しました。

このコミュニティー化によって、アメリカで黒人差別が加速化しました。

その副産物が音楽。

このコミュニティでアフリカとアメリカの文化の融合がおこり、黒人奴隷はつらい思いを音楽で表現し、黒人霊歌がうまれ、さらにゴスペル、ブルース、ジャズと発展し、ロックの起源に大きな影響を与えました。

黒人奴隷貿易で現在の素晴らしい音楽があるのは、皮肉なことです。

 

【南北戦争の豆知識】

黒人奴隷のプランテーションと三角貿易の拠点として自由貿易で大もうけしたのがアメリカ南部。
北部は工業化社会(イギリスには勝てないので保護貿易推進)で、南北での経済格差と自由貿易・保護貿易の差から南北戦争へ発展。
北軍は”南部の黒人奴隷を解放すれば、南軍は弱体化するねー”とリンカーンが表向きは人権ということで奴隷解放へ。
それで弱体化した南軍に北軍は勝利し、解放した奴隷をアフリカ植民地化活動員としてシエラレオネに送り込みます。

 

このようにイギリスはシエラレオネで黒人奴隷貿易でもうけ、次には植民地・保護領化を行いました。

シエラレオネがイギリスの被害国である理由について説明しました。

 

次に、シエラレオネの歴史を説明します。(文献がある時代からの歴史)
1447年 ポルトガル探検家アルヴァロ・フェルナンデスが停泊
1462年 ポルトガル人がシエラレオネ半島をシエラレオネ(獅子の山)と名付ける
16~19世紀前半 イギリスの奴隷貿易、小規模な城塞が海岸部に点在
18世紀後半 イギリスの奴隷貿易廃止促進協会のグランビル・シャープが解放奴隷を

  シエラレオネに定住計画を計画
  ※アメリカではアメリカ植民協会はリベリアに植民地化推進。
   米英は黒人奴隷貿易廃止をうたって、巧妙にアフリカ植民地化へ
1787年 最初の解放奴隷移住(グランビルタウンと命名)⇒入植失敗
1791年 再度、解放奴隷の再入植(クラインタウンと改名)⇒入植失敗
1792年 再度、解放奴隷の再入植(フリータウンと改名)※現在の首都名
      以後イギリスは続々と解放奴隷を移住させ、イギリス植民地政策を推進
1807年 イギリス議会が奴隷貿易を違法とする法律を可決
1808年 フリータウンはイギリスの直轄植民地、奴隷貿易を取り締まる艦隊の基地へ
      (イギリスの奴隷貿易からアフリカ植民地化の成功)
1827年 フリータウンでフォーラーベイ大学を開設
      クレオール(解放奴隷と現地民との混血)は政治、貿易の中心的な存在へ
      他のイギリス植民地で伝道師や教師として活躍
1880年代 イギリスは内陸部に勢力を拡大
1896年 正式に内陸地域がイギリス保護領へ
      ※フリータウンは従来から植民地
1898年 保護領に導入された小屋税に反対して反乱発生
20世紀代 フリータウンの官僚がイギリス人化(クレオールは政治主導権を失う)
    ※イギリスは解放奴隷を表にだして植民地化し、植民地が整うとイギリス人支配へ
1950年 医師ミルトン・マルガイが保護領の利益をうたい、シエラレオネ人民党(SLPP)結成
1957年 SLPPが選挙で大勝し、マルガイはシエラレオネ初代首相へ
1960年 ロンドンに代表団を派遣してシエラレオネの完全独立を認めるよう要求
1961年4月27日 植民地や保護領からイギリス連邦の一員として独立
1991~2002年 内戦発生、革命統一戦線(RUF)と政府軍との交戦
     ダイヤモンド鉱山の支配権をめぐり大規模内戦に発展、死者7万5000人以上

【補足説明】

 内戦が激化した原因の1つとして、RUFの指導者アハメド・フォディ・サンコーがゲリラの訓練所(リビア)で知り合った隣国リベリアのチャールズ・テーラー(下写真、後にリベリア大統領)と結託し勢力を伸ばしたためです。


 RUF支配下のダイヤモンド鉱山から得られる原石(いわゆる紛争ダイヤモンド)をリベリアに売却、得られた多額の売却益で重火器を調達しゲリラ活動を充実させるなど負の連鎖を繰り返しました。
 RUFは村々を襲っては虐殺を繰り返し、半ば拉致した少年少女を少年兵や性的奴隷に仕立てるという方法を取り、国際的な非難を浴びています。
 一方、リベリアのテーラー大統領は逮捕され、国際連合が設置する法廷で国家元首経験者に対する史上初有罪判決(50年の刑)が言い渡されました。

 

 シエラレオネのダイヤモンド紛争を基に、2006年、デカプリオ主演「ブラッドダイアモンド」の映画が製作されています。

 

次回からシエラレオネ観光を紹介いたします。

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