まずはブータンは独立維持のためにどのようなことをしたのでしょうか。
(1)1617年 1回目
チベット側:ツァントェ王プンツォーナムギャル
※ツァントェ王は中央チベットの覇者となっていたチベットの政権の長の称号で、ツァン・デパ、ツァンパ政権、ツァン派政権、ニャクパ政権、シンシャクパ政権、ツァン・デシなどといろいろな呼び名があります。
■シャプドゥン・リンポチェについて
・意味は「その御足の御前にかしずくべきリンポチェ(師)」
・本名:ンガワン・ナムゲル(チベットでの名前で本名)
・チベットではドゥック派ラルン僧院(寺院)の第18代僧長
・ブータンでドゥック派を広めるため、シャプドゥン・リンポチェと名乗る。
・チベットのカーギュ派の一派、ドゥック派の後継者争いで敗れ、ツァントェ王による暗殺計画を知り、ブータンへ亡命
・ドゥック派の後継者争い
後継者候補:ンガワン・ナムゲルとパサン・ワンポの二人
後継者としては1592年、ドゥック派第4世化身ペマ・カルポが入寂したときの化身候補
ツァントェ王はパサン・ワンポを支持
・亡命の際、ラルン僧院に埋蔵していたドゥック派の遺物を持ち出す。
この遺物の所有で、チベット以外ではドゥック派の指導者といえる。
・ブータンに亡命した後、パロ谷のドゥック・チョデンに定住
1回目の侵攻理由
・チベットの至宝の「ドゥック派の貴重な遺物」を国外に持ち出したため。
(2)1634年 2回目
チベット側:ツァントェ王テンキョン・ワンポ(前王の息子)
2回目の侵攻理由
ブータンのラマ5派※がチベットから来たンガワン・ナムゲルと敵対関係にあり、ンガワン・ナムゲルの政敵であるツァントェ王に助力を願い出たため。
ラマ5派は1629年にシムトカ・ゾンの建設で多忙だったシャプドゥンを攻撃したが、ラマ5派の指導者は殺され、敗北している。
※ラマ5派:ラム・カ・ンガとも呼ばれ、5派とは、ラ派、ニンマ派、バラワス派、カトング派、チャンザム派。
(3)1639年 3回目
チベット側:ツァントェ王テンキョン・ワンポ
勝利した結果、ツァントェ王はシャプドゥンのブータン統治を認める。
3回目の侵攻理由:ラム・カ・ンガ(ラマ5派)の助力依頼があったため。
(4)1644年
チベット側:ダライ・ラマ(ゲルグ派の指導者)・モンゴル連合軍
ツァントェ王(政治・行政上に長も兼任)の勢力が減衰し、世俗上・宗教上の長として代々継承される化身、ダライ・ラマによって指導とされるゲルグ派がチベットを監督していた。
チベット軍はティンプー、プナカさらにパロまで進軍したが、最終的にブータン軍が勝利。
4回目の侵攻理由:ゲルグ派は周辺国に普及を目指したため。
以上、チベットから6回もの侵攻がありましたが、すべて撃退し、シャプドゥンは東部地方を除くブータン全土を統一しました。
その侵攻の撃退理由の1つとして、シャプドゥンが築いたゾンの存在が大きいです。
ゾンとは日本でいうお城で防御の要で、ゾンは谷突き出して一面の眺望を得られる場所や、片側が川になっている岸壁の上もしくは急峻な山腹、尾根に建設されました。
■ゾンの歴史
1629年 シムトカ・ゾン建設(ティンプー郊外)
1637年 プナカ・ゾン建設
1638年 ワンディ・ポダン・ゾン建設
1641年 ラ派のティンプーにあるゾンの押収し
増改築を行い、タシチョ・ゾンとなる。
1645年 ドュック派の一門がパロのおフンゲルにあったゾンを提供
1646年 上記のゾンの増改築を行い、リンプン・ゾンとなる。
1646年 ジャカル・ゾンの増築
1647年 トンサ・ゾン建設
1649年 チベット勝利記念として、ドゥゲ・ゾン建築(パロの北郊外)
1651年 タシ・ヤンツェ・ゾン(ダカナ)
(1651年 シャプドゥンの死)
シャプドゥンの死の事実は50年間も隠ぺいされていました。
というのもシャプドゥンの死による国内の混乱や他国からの侵略を抑えるためでした。
武田信玄でも3年(1573年の死没)でしたので、すごい。
また、シャプドゥンは豊臣秀吉のように、死後、徳川家康をけん制するため、五大老・五奉行制度をつくりましたが、シャプドゥンは1651年にチョエシ制度をつくり、権力の集中をさけました。
この制度はなんと、1907年の初代世襲制王朝ができるまで350年以上もつづきました。
■チョエシ制度
☆シャブドゥンの配下に2つのポストを設置
・ジェ・ケンポ:宗教界の長
・デシ:政治・行政の長
☆ゾンペン:シュブドゥンの代理人
ティンプー、プナカ、ワンディ・ポダンの主要三都市に任命
☆ペンロップ(ペンロプ):シュブドゥンの代理人
上の3都市を除くブータン全土を3地域に分け、配置
(1)トンサ・ペンロップ(東部と東南部の統治)
(2)パロ・ペンロップ(西部と南西部)
(3)ダガナ・ペンロップ(中南部)
ここからブータンという基礎ができはじめたといえると思います。
・南方は岩がちで急峻な斜面を覆う密集した森林があり、その南にはアラリアの蔓延する湿地帯が横たわり、野生動物以外、人間はほとんどいなかった。19世紀にイギリスが茶園をつくるため、この湿地帯を一掃させました。
南北の自然の障害によってブータンは周辺国の主要な貿易路から外れ、市場拡大、領土拡大を狙うイギリス、中国、ロシアからみるとそれほど魅力的な国ではなかったのです。
1865年イギリスとの間にシンチュラ条約を締結。
イギリスは領土占領と引き換えにブータンに年5万ルピーを補償金として支払うことになりました。
ブータンはアッサム、ベンガル、ドゥアールの7.122平方キロメートルにおよぶ全領土を喪失しました。
しかし、ブータンはイギリスには魅力的ではなく、地理上の問題もありそれ以上侵略はしませんでした。
1884年にはイギリスの補助金を巡り、ティンプー・ゾンペン(ゾンポン)のアル・ドルジとプナカ・ゾンペンのプンツォ・ドルジが反乱を起こし、トンサ・ペンロプであったウゲン・ワンチュク(初代国王となる)は4,000人の兵をティンプーに送り、チャンリミタンの戦いで反乱軍を鎮圧しました。
この勝利により、1865年以来断続的に起きていた内乱にも終止符が打たれ、ウゲン・ワンチュクは「近代ブータン建国の父」として認められるようになりました。
敗れたティンプー・ゾンペンだったアル・ドルジはチベットに逃れ、中国に支援を受け、再起をはかろうとしていましたが、ウゲンワンチュクは時を同じくして、イギリスの支援をとりつけました。
ここで、まず中国からの侵攻はイギリスの支援で立ち向かったのです。
今後、ウゲン・ワンシュクはイギリスの親密な関係づくりに注力していきます。
1903年にイギリス軍がチベット侵攻を始め、「ギャンツェでの戦い」を経て、1904年8月ラサに入城、進駐するに到り、ラサ条約(イギリス・チベット条約)を締結して、イギリスはチベットをその保護下に置きました。
このチベット侵攻でウゲン・ワンチュクはイギリス軍に随行し、英蔵会議での条約締結ではイギリスとチベットの仲介役をかって出て、イギリスはウゲン・ワンチュクの交渉能力や政治的手腕を高く評価しました。
1905年にはシッキム行政官のジョン・クロード・ホワイトから、インド皇帝中級勲爵士(Knight Commander of the Indian Emperor)の称号を授与されました。
またインドにおけるイギリス皇太子の歓迎式典に招待されるなど、この過程を経てイギリスとブータンの関係は強化されるとともにインドやその周辺国にはトンサ・ペンロプのウゲン・ワンシュクはブータン指導者として受け取られるようになりました。
1910年2月12日、清の駐蔵大臣趙爾豊の軍隊がラサを占領し、第13世ダライ・ラマは亡命を余儀なくされました。
清はブータンを「チベットの属部」と認識し、ブータンの宗主権を主張しており、ロシアは南下政策によってチベットに影響を及ぼし始めていました。
それらの脅威に備え、ウゲンワンチュクはシンチュラ条約(イギリスと1865年11月11日調印)を改正し、プナカ条約を1910年1月8日に締結しました。
(1)補助金を年額十万ルピーに倍加すること
(2)イギリスはブータンの外交指導権を有するもブータンの内政には干渉しないこと
(3)シッキム王国及びクーチ・ビハール侯国のマハ・ラージャとの抗争はイギリス政府の仲裁に託すこと
プナカ条約締結後、ウゲン・ワンチュクは、イギリス政府に北京駐箚公使を通じて、ブータンが清国から独立した国家であることを通知してもらうことに成功しました。
ウゲン・ワンチュクは外交指導権をイギリスに渡し、準属国になりましたが、その決心は次の4つの理由が考えられます。
(1)1904年に夏にイギリスがチベットの制圧に成功していたこと
(2)清の拡張政策に対する脅威をなくすこと
(3)イギリスの意向がない状態で政治的統一体としてのブータンの存在が不可能であること
(4)イギリス支配下におけるインドの発展を目の当たりにしたこと
一方、国内に目を向けると、権力が分散し、独立維持のため、国力をあげるには1651年からあるチョエシ制度が目障りでした。
そこで、ウゲン・ワンチュクはイギリスの後押しを背景に、ジェ・ケンポ(宗教界の長)、デシ(政治・行政の長)などを廃止し、自らが王となり、さらに国内を安定させるために、世襲制にしたのです。
このようにイギリスの力をつかって、ウゲン・ワンチュクは絶対王政の国を作り上げました。
⑤インドとの関係強化
ブータンとネパールに挟まれたシッキム王国(元はチベット系)はネパール系国民が75%を占めることや民主化を発端に、1975年、インドに併合されてしまい、消滅しました。
ブータンはネパール系ブータン人(ローツァンパという)が人口比40%を占めるようになり、シッキム王国のようにインドに併合されるリスクが高まってきました。
そこで、第四代国王ジグミ・シンゲ・ワンチュクは、1989年4月 「ブータン北部の伝統と文化に基づく国家統合政策」を施行しました。
これにより、ゾンカ語の国語化、伝統的礼儀作法(ディクラム・ナムザ)の順守、教育現場でのネパール語の禁止などが実施されていきました。
この国家統合政策からネパール系国民からの反発やデモが起こり、1991年にはネパール系ブータン人に対する恣意的逮捕、レイプ、拷問が激しくなり、多くのローツァンパが国外脱出し、難民化しました。一番多いときに12万人もいて、ブータン人口の20%が国籍剥奪されている異常は事態が発生し、ブータンは難民と認定せず、解決に向けての努力もほとんどしていないです。
また、世界人権宣言でもうたわれている 「自分の国に帰る権利」をブータン政府は無視し、20年以上経過した今でもブータン難民はブータンに帰国できずにいます。
この詳細は次の記事で書いていますので、次を見てみてください。
http://ameblo.jp/la-luna-sarah/entry-11993481191.html
このように独立を維持するために、民族浄化をおこない、ブータンはブラックな国ですが、世界一幸せな国や美男美女の王様・王妃などの情報を精査せず、プラス面だけの情報を発信している日本のマスコミにも疑問を感じます。
http://ameblo.jp/la-luna-sarah/entry-11076468738.html
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コメント
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ちょこちょこ気になるフレーズがあって、ついつい読んじゃいました(笑)
ブログ記事、大変参考になりました(^▽^)/
次の更新の際に、また絶対読みに来ます!!!
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ちょこちょこ気になるフレーズがあって、ついつい読んじゃいました(笑)
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>かなこさん
激励のコメント、ありがとうございます。
更新しますので、また遊びに来てください!
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激励のコメント、ありがとうございます。
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初コメですね♡ご飯の合間に時間あったのでブログ触っていました!こうやって様々な方とコミニケーションできるのってブログのいい所ですよね!これを機会に、仲良くしていただけると幸いです!でわでわ♡
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初コメですね♡ご飯の合間に時間あったのでブログ触っていました!こうやって様々な方とコミニケーションできるのってブログのいい所ですよね!これを機会に、仲良くしていただけると幸いです!でわでわ♡
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>700799003さん
初コメ、ありがとうございます!
ブログっていいですね。
情報発信でどのようなことを伝えるべきかを考えたりするので、自分の勉強にもなりますね。
今後ともよろしくお願いします!
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>700799003さん
初コメ、ありがとうございます!
ブログっていいですね。
情報発信でどのようなことを伝えるべきかを考えたりするので、自分の勉強にもなりますね。
今後ともよろしくお願いします!
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>山城・歴史☆111ケ国の旅人 はぎーのランキング集さん
興味深く、思わず熱心に読みました。
ブータン王国と言えば、和歌山県の道の駅に「イノブータンランド」というのがあり、少しふざけていると思いますが、ブタさんの国王と王妃様が「幸せの国」と称して鎮座されており、そこでの少しの説明文を読んだ知識しかありません 笑
旅行して楽しかった感想だけでなく、いろいろな角度から勉強されていて分かりやすく解説してあり、考察も入っていて、感銘しました。
世界中の国々をまわられたのですね。
他の記事も読んでみます。
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>山城・歴史☆111ケ国の旅人 はぎーのランキング集さん
興味深く、思わず熱心に読みました。
ブータン王国と言えば、和歌山県の道の駅に「イノブータンランド」というのがあり、少しふざけていると思いますが、ブタさんの国王と王妃様が「幸せの国」と称して鎮座されており、そこでの少しの説明文を読んだ知識しかありません 笑
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世界中の国々をまわられたのですね。
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>schocomintさん
たくさんのいいね、ありがとうございます。嬉しかったです♪
ブータン記事をいろいろ読んでくださったんですね。ありがとうございます。
ブータンに行って、日本のマスメディアにだまされていると思い、いろいろ調べました。
イノブータンランド関係者はあまりに調べず、マスメディアを信じ込んでるって洗脳は怖いですね。
西アフリカ旅行では黒人奴隷貿易の実情をみてショッキングでしたので、ブータンと同様に記事を書く上でたくさん勉強しました。
海外旅行は勉強のキッカケになってましたが、今は行けないのでその情熱が山城にいきました(笑)
今後ともよろしくお願いします。
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>schocomintさん
たくさんのいいね、ありがとうございます。嬉しかったです♪
ブータン記事をいろいろ読んでくださったんですね。ありがとうございます。
ブータンに行って、日本のマスメディアにだまされていると思い、いろいろ調べました。
イノブータンランド関係者はあまりに調べず、マスメディアを信じ込んでるって洗脳は怖いですね。
西アフリカ旅行では黒人奴隷貿易の実情をみてショッキングでしたので、ブータンと同様に記事を書く上でたくさん勉強しました。
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今後ともよろしくお願いします。