【小谷城&賤ケ岳の戦い】の舞台を旅するおすすめプラン

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歴史に詳しくない方向けに、覚えておいた方がいい武将に※で説明をいれ、更新しました。

※以外の名前がお分かりになられないときはスルーしてください。

今回も次回に続き、山城+登山+観光からおすすめコースを紹介いたします。
この旅行から歴史をリアルに感じられるように、詳しく説明をいれております。

本記事を読まれる前に、このプランのコンセプトをコチラからご覧ください

第二弾は滋賀県長浜市。

前回は信長が主役でしたが、今回は信長に次ぐ天下人豊臣秀吉(羽柴秀吉)です。

なぜここを紹介する理由は以下に示します。

秀吉が天下人になる第一歩となる長浜市の以下2か所に加え、ハイキング・温泉・古墳巡りを上手に組み合わせられ、山城ファン以外にも楽しめるコースであるためです。

小谷城:日本五大山城、浅井長政※1は自刃前に妻お市と娘(茶々、初、江)を引き渡す

秀吉は攻め落とし大手柄を立て、長浜城の城持ち大名になるキッカケとなった城

賤ケ岳の戦い:秀吉が山城も最もうまく活用した賤ケ岳の戦い(vs柴田勝家※2)

勝利で信長が築き上げた権力と体制を継承し天下人への第一歩へ

豊臣政権No2となる前田利家※3が金沢城城主になるきっけとなった戦い

=====補足説明=====

※1浅井長政:北近江(滋賀県北部)の戦国武将

織田信長の妹「お市の方」を正室として夫婦とても仲がよく、今後の時代に大きな影響をあたえる3娘茶々(のち淀君、豊臣秀頼の母)、初、江(江戸幕府第3代将軍・徳川家光の母)がいます。
信長が約束を破り、朝倉氏を攻めたことから、信長と同盟破棄し、織田・徳川軍の背後から軍勢を攻めかけました。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長でしたが、殿(しんがり)を務めた木下秀吉・明智光秀の働きにより退却には成功しました(金ヶ崎の戦い)。

浅井長政が裏切ることを知ったお市の方は”豆を袋に入れ両端を縛ったもの”を送って、信長に長政の離反を伝えたことは有名ですね。

その後姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉)で敗北し、この小谷城の戦いに至りました。

 

※2柴田勝家:織田四天王で信長の尾張時代から一緒にいる、”信長の双璧”といわれた一人(もう一人は丹羽長秀)。勝家といって通じるぐらいの有名武将。

木下秀吉はお二人にゴマをするため、お二人の姓の一字ずつもらって羽柴秀吉と改名しました。羽柴なので柴田より丹羽の上?と思われるかもしれませんが、実際は佐久間信盛※4が追放されると、家臣No1が柴田、No2が丹羽でしたのでゴロが良かったから”ハシバ”にしたと思います。信長亡き後、織田政権の家臣No1を羽柴秀吉と争った武将(賤ケ岳の戦い)でもあります。

家臣No1で争ったでけでなく、実際どうかわかりませんが、信長の妹「お市の方」を羽柴秀吉ととりあいし、結局、思いを遂げられ、お市の方を正室に迎えることができました。

しかし、その結婚話の裏では、羽柴秀吉が清州会議(信長亡きあと織田のトップを決める会議)で、お市の方の結婚を勝家にちらかせて、秀吉は有利な条件を引き出すカードにつかったともいわれています。事実かどうかわかりませんが、歴史を武将の思いなどを焦点にあててみるとストーリーとして面白くなりますね。

※3前田利家:加賀・越前・能登の三国を支配した加賀百万石初代の大名

「そろばん好きの堅実な大名」、「愛妻家の武将」として有名で、日本無双の槍、武力でも大活躍した武将です。豊臣政権では五大老として家臣No1として徳川家康の勢力の抑えていました。利家が死去すると徳川家康は豊臣に乗っ取りをはじめるのでした。

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今回、1泊2日のプラン(または分けて日帰り2回)です。宿も一人でも泊まれ、一人旅OK。

■山城&観光&温泉旅行プラン

1日目
JR余呉駅10時頃発'(駅到着前に昼食持参)⇒改札を出て左に案内所があり、マップをもらう⇒徒歩7分⇒江土登山口/乎彌神社(おみじんじゃ)⇒岩崎山砦(高山右近)⇒大岩山砦(中川清秀、ここで討たれ墓あり)⇒首洗いの池猿ヶ馬場(開戦後、羽柴秀吉の最初の本陣)⇒賤ケ岳砦(ここからの景色が非常によい)⇒余呉湖方向へ700m⇒飯ノ浦切通し(はんのうら、飯浦切通し)⇒この間が大激戦地⇒余呉湖荘脇登山口(ここまでが賤ケ岳ハイキングコース)⇒もとに戻り、賤ケ岳砦⇒遊歩百選※「湖の辺の道」(読売新聞の50年記念の事業として全国から2002年に選出、道中に3kmにわたる132基の古保利古墳群あり)⇒山本山城⇒朝日山神社⇒河毛駅(余呉駅から約6~7時間ほど)⇒宿のピックアップ要事前予約(目安16~17時)⇒須賀谷温泉(お市の方が湯治した古の名湯、浅井長政も湯治に通ったの湯)

小谷城の麓にひっそりと涌く秘湯は、浅井長政も湯治に通ったという歴史の湯です。戦国武将が傷を癒すのに使ったといわれ、効能も折り紙付きです。

2日目
須賀谷温泉9:00発⇒宿の送迎(要予約)⇒戦国ガイドステーション/出丸入口⇒小谷城(出丸跡→真柄峠→金吾丸→番所跡→本丸→山王丸→六坊→※横掛道→番所跡→望笙峠⇒小谷城戦国歴史資料館(100名城スタンプ)⇒徒歩6分⇒昼食:セブンイレブン湖北小谷店(店内飲食可能)⇒徒歩5分⇒虎御前山ハイキングコース(信長軍の小谷城攻め本陣)⇒矢合神社⇒虎姫駅 約5~8時間
※登山経験が多くない方はこのルートは難しいので以下に別のルートを紹介しています。

登山に自信がある方でも道が細く、滑落のおそれがありますので、不安に感じられたらすぐに引き返してください。無理して進んでしまうと引き返すのも大変になります。

このルートは一般のマップに載っていないルートで看板をみるまではやばいところに来てしまったと思いました。

※登山経験が多くない方向けは以下の2通りがあります。(筆者は行っておりません)

①きつい:六坊→大嶽城跡(登山あり)→福寿丸→山崎丸→戦国歴史資料館

②楽(下り):大野木屋敷→三田村屋敷→徳昌寺→遠藤屋敷→戦国歴史資料館

 

■これから旅行プランを順に説明します。
1日目 コースマップ余呉駅~賤ケ岳砦~湖の辺の道~山本山城

引用:長浜市北部振興局農林課作成https://www.city.nagahama.lg.jp/cmsfiles/contents/0000005/5439/kohokusangakumap.pdf

 

JR余呉駅10時頃発'(駅到着前に昼食持参)
⇒改札を出て左に案内所で以下のマップをもらえました⇒徒歩7分⇒江土登山口/乎彌神社(おみじんじゃ)

岩崎山砦(高山右近※4)⇒

※4高山右近(うこん):人生のほぼすべてをキリスト教に捧げた大坂・高槻城主


秀吉が発した伴天連追放令に従わなかったため、大名の地位を奪われました。
「キリシタン大名」と呼ばれた人物は数多くいますが、家や領地を犠牲にしてまで信仰を貫いた大名は、高山右近ただひとりです。
右近は紆余曲折の後、加賀の前田利家に迎えられ、千利休の高弟である「利休七哲」(りきゅうしちてつ)の茶人として、またキリシタンとしての活動を続けました。
徳川時代になるとキリスト禁止令が発せられたため、右近は金沢を去り、フィリピンのマニラに移住し、死去しました。
右近没後400年を経て右近はローマ法王から聖人につぐ福者(死後その徳と聖性を認められた者に与えられる称号)として認定を受けました。

2017年2月7日、ローマ法王代理のもと大阪城ホールで認定式が行われました。

大岩山砦(中川清秀の墓もあり)⇒首洗いの池猿ヶ馬場(美濃から帰ってきておいた秀吉の本陣)


賤ケ岳砦
(ここからの景色が非常によい)⇒余呉湖方向へ700m⇒飯ノ浦切通し(はんのうら、飯浦切通し)⇒この間が大激戦地⇒余呉湖荘脇登山口(ここまでが賤ケ岳ハイキングコース)⇒もとに戻り、賤ケ岳砦へ、これより南にある山本山城へ

賤ケ岳砦からみた余呉湖

布陣の確認

秀吉軍の勝利ポイント:

秀吉軍は北国街道を山城群で防衛ライン(惣構)で封鎖:茂山~神明山~堂木山~東野山

・秀吉は持久戦狙い:

防御性の高い山城を敵に攻められる前に早期築城が得意で、土木技術が高い

また秀吉は兵士を大事にする戦い方をよくしています。水攻めもそうですね。

※秀吉軍の水攻め例:備中高松城、紀伊太田城、忍城(映画になりました)

・勝家軍の山城は簡易で防御性が弱く、攻撃重視

合戦前に勝負は決まっていたといえます。

 

賤ケ岳砦から以下の地図と比較しながら山城を確認されると楽しいと思います。

お城には興味ないけど戦国時代の歴史が大好きの方はここだけでも訪れてみてください。

筆者はすごくテンションがあがりました爆  笑

 

◆賤ケ岳の戦い1583年の経過

・4月16日、織田信孝が岐阜城下、滝川一益※5が伊勢で挙兵

・4月17日、秀吉が美濃に進軍

・4月19日、秀吉側に寝返っていた柴田勝豊の家臣が密かに「秀吉が大垣に赴いていて留守であること」を聞いた佐久間盛政(身長182cm伝、勇猛さから鬼玄蕃)は秀吉の不在を狙って秀吉防衛ラインを迂回して、余呉湖畔沿いに(賤ケ岳砦は避けた)、大岩山砦攻撃

⇒中川清秀討死、砦にお墓があります。

・続いて黒田孝高※6の部隊が盛政の攻撃を受けることとなったが、奮戦し死守

・佐久間盛政は矛先を変え岩崎山に進軍⇒高山右近は羽柴秀長(秀吉の弟)の木ノ本陣に退却

・柴田勝家は撤退命令を何度も下したが、盛政は無視し前線に着陣し続ける

・4月20日、賤ヶ岳砦守将、桑山重晴(秀吉軍)は劣勢であると判断し撤退開始

・時を同じくして船によって琵琶湖を渡っていた秀吉軍の丹羽長秀※7は「一度坂本に戻るべし」という部下の反対し、海津への上陸(兵2000の軍勢)

 

=========注釈==========

※5滝川一益:織田四天王。

織田信長の面前で百発百中の鉄砲の腕を披露し、召し抱えられました。織田四天王の明智光秀も鉄砲の知識や腕がよかったですね。
滝川一益は甲賀出身で忍者大名だったかもといわれるくらい、諜報活動が得意で北伊勢攻略では大活躍します。
石山本願寺(この場所は非常によかったため、あとで秀吉はその場所に大阪城築城)討伐では水軍大名九鬼組んで毛利水軍が石山本願寺への兵糧や武器の搬入を阻止し、北伊勢の大名になりました。
あまりにも明智光秀とともに実力者であったため、尾張出身以外で織田四天王まで大出世しましたが、出世を望む羽柴秀吉のライバルとなり、清須会議では諸説ありますが、北条との闘い(神流川の戦い)で関東にいる一益が出席できないように羽柴秀吉が早期開催にし、秀吉は秀吉・長秀・池田恒興vs柴田勝家のかたちにもちこみ、秀吉は得意の調略で清須会議開催以前に勝利が確定していたように思います。

他の一益の不参加理由は、神流川の戦いの敗戦を恥じて不参加、その敗戦理由で参加対象外になった、関東にいるのでもともと参加対象外だったなどがあります。
神流川の戦いでの敗戦と清須会議欠席で、織田四天王でありながら急速に勢力が落ちていきました。

※6黒田孝高(官兵衛):秀吉の軍師

軍事的才能に優れ、豊臣秀吉の側近として仕えて調略や他大名との交渉など、幅広い活躍し、竹中半兵衛とともに秀吉の参謀と評され、後世「両兵衛」「二兵衛」と並び称されてます。

※7丹羽長秀:信長の尾張時代から一緒にいる、”信長の双璧”といわれた一人。

長秀といって通じるくらいの有名武将。信長から、一字をもらって改名。長をもらった武将は二人だけでどれだけ信頼されたかが名前からもわかります。
長秀は造船や築城(安土築城の総奉行など)の行政面にも優れた手腕を発揮し、文武両道で温厚な性格だったようで、血気盛んな武将が揃う織田家臣団の中で重要な役割があったように思います。

========注釈おわり========

秀吉軍のラッキーポイント

撤退中の桑山重晴は偶然、長秀軍と偶然鉢合わせ、撤退中止し、賤ヶ岳砦を取り戻す

丹羽長秀の読みがよかった

秀吉のすごさ

・同日、大垣城にいた秀吉は大岩山砦等の落城を知り、直ちに軍を返し、世にいう「美濃大返し」で 14時に大垣を出た秀吉軍は木ノ本までの13里(52キロ)の距離を5時間で移動

※中国大返しで明智光秀を討つなど決断力・機動力がすば抜けています。

4月21日、 佐久間盛政は、猿ケ馬場に陣をしいた秀吉の強襲から死守

・秀吉は盛政隊に勝てないと判断し柴田勝政(盛政の実弟)に攻撃変更

・勝政を盛政が救援するかたちで、両軍は激戦となる(飯ノ浦切遠し~余呉湖畔)

◆勝利のポイント
・激戦の最中、茂山に布陣していた柴田側の前田利家の軍勢が突如として戦線離脱し、柴田軍全体の士気も一気に下がる
※秀吉のお得意の調略が旧知の友、前田利家に早い段階からあったと推察されてます。
 別説では利家は中立的な立場で最初のうちは合戦はしない方針で、美濃の大返しや到着してからの秀吉の巻き返しを見て、今後は秀吉の天下と悟って、退却したともいわれています。
 また利家は退却中に柴田勝家に会い、お詫びをし、命を差し出したという逸話があります。
 他にも所説あり、省略しますが、これ以降、柴田勝家が籠城した北ノ庄城の攻略では利家は秀吉軍の先鋒となってます。戦線離脱とこの先鋒から加増され、金沢城を居城とし、加賀百万石の礎を築きました。
・このため利家と対峙していた軍勢はが柴田勢への攻撃に加わり、柴田側の不破勝光・金森長近の軍勢も退却し、佐久間盛政の軍を撃破
・秀吉の軍勢が柴田勝家本隊に殺到し、勝家は越前・北ノ庄城に退却

 

■まとめ(上記2点は本やテレビでもあまり語られていないです)

・防御性の高い山城をつくるのが得意。山城を重していた。

・秀吉は本城や居城でないところで、敵がいる中、多数の山城を早期築城させる

・その複数の山城を連携させさらに北国街道も防塁を築き封鎖した。

通常の武将は1つの山城(居城)で防御する。

能力の高い武将は支城をつくりエリア全体の防御性を高める。

支城の例;

・信濃守護小笠原は林城を築城し、その支城の一つが人気の高い松本城があります

・後北条は小田原城を本城とし、関東全体に山城ネットワークを構築(しかし、兵が少ないのに、山城が大きくしすぎたり、多い山城のため、兵の配置が不十分で秀吉軍はどんどん攻略ができ、小田原城まで思ったより楽に到着)

⇒本城だけでは心もとないので支城をつくりますが、支城の配置・数・大きさなど総合的な設計が重要です。兵が少ないなら選択と集中が有効です。

・軍の移動スピードが速い(中国大返しと同様、今回は美濃大返し)

・調略が上手(朝倉氏は一乗谷を捨てた後、同盟の平泉寺と組もうとしましたが、秀吉がすでに調略していたと言われています)

体力のある方は次のルートを行ってみてください。

賤ケ岳砦⇒余呉湖方向へ700mを降りて飯ノ浦切通し(はんのうら、飯浦切通し)⇒この間が大激戦地⇒余呉湖荘脇登山口(ここまでが賤ケ岳ハイキングコース)⇒もとに戻り、賤ケ岳砦へ

琵琶湖の方を見ますとこちらも景色がいいですビックリマーク

案内板

賤ケ岳砦から遊歩百選「湖の辺の道」(読売新聞の50年記念の事業として全国から2002年に選出)を通って山本山城に向かいます。

 

道中に3kmにわたる132基の古保利古墳群あり)

滋賀県教育委員会の情報(道中で見つけた情報)

遊歩百選だけあって景色がいいです。

遊歩百選をあるいていくと山本山城につきます。
山頂の案内文です。

山本山もきれいでした!

山本山を下山すると朝日山神社があります。

朝日山神社⇒河毛駅(余呉駅から約6~7時間ほど)⇒宿のピックアップ要事前予約(目安16~17時)⇒須賀谷温泉
この須賀谷温泉は信長の妹、お市の方が湯治した古の名湯として、小谷城の麓にひっそりと涌く秘湯は、浅井長政も湯治に通ったという歴史の湯です。
戦国武将が傷を癒すのに使ったといわれ、効能も折り紙付きです。
滋賀県初のかけ流し式で、2つの露天風呂があり、日替わりです。
引用:須賀谷温泉HPより

引用:以下の須賀谷温泉サイトより

小谷城の麓にひっそりと涌く秘湯は、浅井長政も湯治に通ったという歴史の湯です。戦国武将が傷を癒すのに使ったといわれ、効能も折り紙付きです。

全国の温泉地に伝わる偉人との結びつき、まとめた本が次です。このお市の方以外にも武田信玄の隠し湯、豊臣秀吉が人生で9度も訪ね、接待用の温泉宿もつくった有馬温泉(兵庫県) 、西郷隆盛がのんびり過ごした鰻温泉・日当山温泉(鹿児島県) 、「日本最初のハネムーン」で坂本龍馬が滞在した霧島温泉・塩浸温泉(鹿児島県)など、いろいろ紹介されています。

2日目の旅行プランです。

宿に戦国ガイドステーションまで送迎してもらいました。近いので送迎不要でした。

下車後~小谷城戦国歴史資料館までは次の記事をみてください。
その記事はコチラから

小谷城、小谷城戦国歴史資料館の次は虎御前山城です。

ここで昼食の場所のおすすめです。
セブンイレブン湖北小谷店が近くにあり、店内で食事ができました。
虎御前山ハイキングコースの入り口は下図E8の道沿い北西にいったところにありました。
Googleマップでの案内は2つ見つけましたがすべて間違っており、筆者は1時間ぐらい迷いました。
下の小谷郡上町あたりが登山口でした。

虎御前山城は小谷城がなかなか落ちないと思ったため、織田信長が陣城にしたところで、今はハイキングコースとなっています。

入り口は木下秀吉陣の北あたりです。

ハイキングコースでは次の有名武将の陣跡(伝承)をめぐっていきます。

柴田勝家⇒木下秀吉⇒織田信長⇒堀秀政※8⇒滝川一益⇒丹羽長秀⇒蜂屋頼隆⇒矢合神社

これだけ近距離で有名武将の陣をみれるので楽しいですニコニコ

=======注釈========

※8堀秀政:織田信長に近侍した近江長浜城主

信長死後の清須会議で織田氏蔵入地の管理を託され,近江佐和山城主を経て1585年越前北ノ庄18万石余を領し,加賀の前田氏とともに北陸の要衝を任された。北条氏の小田原征伐に従軍中に病没。

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途中、古墳群(下の看板)もありました。

地図の虎御前山公園~矢合神社~虎姫駅(1.8km)に向かいます。

 

虎姫駅に到着。お疲れ様でした。

この駅付近ではコンビニや飲食店はなく、自動販売機ぐらいでした。

おなかがすきそうでしたら、昼食時に購入された方がいいかと思います。

 

以上、すべてオリジナルで作成しました。

皆さん、いかがだったでしょうか。

織田信長の北近江・越前攻略、木下秀吉や前田利家の出世街道の重要なところであり、山城から実体験から生の歴史を学べる興味深い場所です。

体力は必要ですが、山城からみるリアルな歴史の旅にでかけてみませんか?

他に山城情報たくさんの次の記事もご覧ください!
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

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