歴史に詳しくない方向けに、覚えておいた方がいい武将に※で説明をいれました。
※以外の名前がお分かりになられないときはスルーしてください。
小谷城はよくぞ秀吉攻略したといえる戦国屈指の堅城です。
通常のマップに書かれていない「横掛道」を含めた攻略ルートを紹介します。
なぜマップに書かれていないですが、道が細く、崩れやすい部分があり、危険だからです。
登山に自信ない人は当然、無理ですが、自信があっても通常の登山ルートではないため、自己責任で行動してください。
なぜ見つかったかというと、秀吉が水の手道から登って京極丸を攻略した話(以下に詳しく説明しています)から、京極丸から、水の手道をさがしていたところ、通れそうな道を見つけ、突き進んだところ以下の看板をみつけ、横掛道の存在を知りました。
小谷城の戦い、一乗谷の戦い(刀根坂の戦い)の概要を以下に記載します。
これは木下秀吉が一国一城の主になるサクセスストーリーでもあります。
1570年6月28日 姉川の戦い、信長と徳川家康の連合軍は朝倉・朝倉連合軍を破る
→浅井氏本拠・小谷城の南方拠点である横山城を奪い、木下秀吉が守将・監視役に
1572年7月、5万の大軍を率いた信長は小谷城の目と鼻の先に在る虎御前山に本陣を布いて砦を修築し 虎御前山から横山城まで長大な要害を作り始める
1573年8月8日、秀吉は独断で山本山城主阿閉貞征を調略、竹中半兵衛(秀吉の軍師)を置く
→信長はこれを好機と、3万の軍勢を率いて虎御前山の砦に本陣を布く。
→小谷城に5千の軍勢と共に籠城したが離反が相次ぎ2000以下に
→浅井長政※1は朝倉氏への援軍要請
→朝倉義景※2自ら2万の軍勢を率いて小谷城の北方まで進出
=====補足説明=====
※1浅井長政:北近江(滋賀県北部)の戦国武将
織田信長の妹「お市の方」を正室として夫婦とても仲がよく、今後の時代に大きな影響をあたえる3娘、茶々(のち淀君、豊臣秀頼の母)、初、江(江戸幕府第3代将軍・徳川家光の母)がいます。
信長が約束を破り、朝倉氏を攻めたことから、信長と同盟破棄し、織田・徳川軍の背後から攻めかけました。予期せぬ長政の裏切りで窮地に陥った信長でしたが、殿(しんがり)を務めた木下秀吉・明智光秀の働きにより退却には成功しました(金ヶ崎の戦い)。
浅井長政が裏切ることを知ったお市の方は”豆を袋に入れ両端を縛ったもの”を送って、信長に長政の離反を伝えたことは有名ですね。
その後姉川の戦い(織田・徳川vs浅井・朝倉)で敗北し、この小谷城の戦いに至りました。
※2朝倉義景:越前国(現在の福井県北東部)随一の名門大名家11代目当主
政治への関心は薄く、家臣達に任せきりで凡将と揶揄される。
もし一流大名であれば、頼ってきた足利義昭を明智光秀とともに上洛させ、天下をとれていたポジションにあったと思います。
====補足説明おわり===
8月10日 丹羽長秀、秀吉は一時間で丁野山城を攻略
柴田勝家※3、滝川一益※4は朝倉軍の大嶽城、福寿丸、山崎丸を攻略
→田上山まで進軍した朝倉軍は撤退開始
→佐久間信盛※5信長の命令(朝倉撤退すれば死ぬ気で追撃すること)を守れず信長自身が馬廻衆など精鋭騎馬隊2000だけで猛追
=====補足説明=====
※3柴田勝家:織田四天王で信長の尾張時代から一緒にいる、”信長の双璧”といわれた一人(もう一人は丹羽長秀)。勝家といって通じるぐらいの有名武将。
木下秀吉はお二人にゴマをするため、お二人の姓の一字ずつもらって羽柴秀吉と改名しました。羽柴なので柴田より丹羽の上?と思われるかもしれませんが、実際は佐久間信盛※4が追放されると、家臣No1が柴田、No2が丹羽でしたのでゴロが良かったから”ハシバ”にしたと思います。信長亡き後、織田政権の家臣No1を羽柴秀吉と争った武将(賤ケ岳の戦い)でもあります。
家臣No1で争ったでけでなく、実際どうかわかりませんが、信長の妹「お市の方」を羽柴秀吉ととりあいし、結局、思いを遂げられ、お市の方を正室に迎えることができました。
しかし、その結婚話の裏では、羽柴秀吉が清州会議(信長亡きあと織田のトップを決める会議)で、お市の方の結婚を勝家にちらかせて、秀吉は有利な条件を引き出すカードにつかったともいわれています。事実かどうかわかりませんが、歴史を武将の思いなどを焦点にあててみるとストーリーとして面白くなりますね。
※4滝川一益:織田四天王。
織田信長の面前で百発百中の鉄砲の腕を披露し、召し抱えられました。織田四天王の明智光秀も鉄砲の知識や腕がよかったですね。
滝川一益は甲賀出身で忍者大名だったかもといわれるくらい、諜報活動が得意で北伊勢攻略では大活躍します。
石山本願寺(この場所は非常によかったため、あとで秀吉はその場所に大阪城築城)討伐では水軍大名九鬼と組んで毛利水軍が石山本願寺への兵糧や武器の搬入を阻止し、北伊勢の大名になりました。
あまりにも明智光秀とともに実力者であったため、尾張出身以外で織田四天王まで大出世しましたが、出世を望む羽柴秀吉のライバルとなり、清須会議では諸説ありますが、北条との闘い(神流川の戦い)で関東にいる一益が出席できないように羽柴秀吉が早期開催にし、秀吉は秀吉・長秀・池田恒興※6vs柴田勝家のかたちにもちこみ、秀吉は得意の調略で清須会議開催以前に勝利が確定していたように思います。
他の一益不参加理由は、神流川の戦いの敗戦を恥じて不参加、その敗戦理由で参加対象外になった、関東にいるのでもともと参加対象外だったなどがあります。
神流川の戦いでの敗戦と清須会議欠席で、織田四天王でありながら急速に勢力が落ちていきました。
※5佐久間信盛:信長が家督を継いでずっと信長を応援してきて家臣No1になった武将です。
他の重臣と比較して大きな功績がなく、以下の数々の失態で追放されました。このため、名前といろいろやらかした重臣という認識だけでいいと思います。
失態例:
・武田信玄と徳川家康の対決で、信玄に手を出すなと指示をうけていましたが、家康とともに信玄に対決(三方ヶ原の戦い)し、家康は逃走中に脱糞するぐらいの大敗してしまい、、その戒めと描かせた自画像が有名になっています。
佐久間が家康を出陣をやめさせていたらどうなっていたのか、気になります。
・小谷城の戦い(信長vs浅井・朝倉)で「朝倉軍が退却したら死ぬ気で追撃せよ」と信長から厳命がありましたが、朝倉義景が退却しても追撃をせず、信長自身が少数の精鋭部隊ですぐに追撃にむかいました。そりょ、信長はおこりますけど、降格されてません。
・10年にも及ぶ石山本願寺討伐で総指揮を丸4年しましたが、何を成果があがらず、怠慢があったと信長に指摘され、追放されました。明智光秀もできがよくない身分が上の佐久間には手をやいたようです。
⇒このことから信長は実力主義といわれてますが、これほど大失態がありますが、すぐには追放せず、家督相続の恩も感じてたようで、実力主義とはいいきれないように思います。
ちなみに尾張時代から一緒にいて重臣まで出世した人は佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、前田利家、池田恒興で、尾張出身者を大事にしていたと思います。
※6池田恒興:信長の乳兄弟、小姓として幼いときから信長に仕え、清須会議の四人のメンバー。
映画『信長協奏曲』のつねちゃんで向井理さん、映画『清須会議』では佐藤浩市さんが演じていました。
武功をいろいろ立てていますが、他の有名武将の色が濃く、あまりめだたない存在ですが、清須会議の四メンバーだったことが人生のハイライトだったように思います。
なぜメンバーに選ばれた理由は、諸説ありますが、滝川一益が不参加として秀吉・勝家・長秀の三人だと長秀次第できまってしまうので、選定時点で中立であり、信長と乳兄弟ということで恒興が一益のかわりに選ばれたと思います。
ただ秀吉は調略が得意ですので、清須会議以前には恒興に摂津国から3郡を与える裏取引があったと思います。
=====補足説明おわり=====
8月13日 刀根坂の戦いで朝倉氏が大敗北
8月17日織田軍は朝倉氏居城一乗谷城を攻め焼き払ったため、最深部大野郡山田庄に逃亡
8月20日朝倉景鏡の裏切りもあり、義景は自刃して朝倉氏は滅亡
8月26日越前を制圧した信長は虎御前山の本陣へ帰還
8月27日 木下秀吉は信長の指示を無視し独断で夜半に3000の兵を率いて予め偵察しておいた水の手道の急斜面から長政の拠る本丸と長政の父・浅井久政が籠る小丸との間にある京極丸を占拠
(これが水の手道をみたいと思った理由です。また独断で攻めたのは柴田勝家に先を越されないようにお市の方を救うためとも言われてます)
→朝倉父子を繋ぐ曲輪を分断することに成功
→信長は秀吉800の兵に合流し、久政は追い詰められて自害
→本丸の長政(兵500)はしばらく持ちこたえ、嫡男万福丸に家臣を付けて城外へ逃がす
→東の赤尾屋敷にいた正室のお市の方を3人の娘(浅井三姉妹)と共に織田軍に引き渡す
9月1日長政は赤尾屋敷で自害して小谷城は落城
→この戦いで一番槍、山本山城調略など最大の功労者は小谷城を与えられ、ここでは政務に向かず、長浜城を築き、一国一城の主となる
信長は北近江、越前を制圧したため、岐阜より便がいい、安土に1576年安土城の築城を開始しました。
信長は尾張城、小牧山城、岐阜城、安土城と本城を移転しています。
このように本城を変え、次々に城下町をつくり、日本最初のデベロッパーと言えるかもしれません。
■筆者がたどったルートは次のとおりです。
このルート紹介が本記事のメインとなります。
戦国ガイドステーション/出丸入口⇒小谷城(出丸跡→真柄峠→金吾丸→番所跡→本丸→山王丸→六坊→京極丸→横掛道→番所跡→望笙峠→小谷城戦国歴史資料館→虎御前山城
筆者は六坊まで行き、次のルートも考え、上記のルートを選択しました。
②京極丸から水の手道(水の手谷)から清水谷に降りる
(トレッキングを楽しみたい人向け、それでも大変と思います)
③六坊から大野木屋敷あとに向かい、清水谷をおりる
(これが一般の方のおすすめルートです)
④六坊から大獄城跡まで行き、福寿丸経由でおりる
(体力があって別の角度から小谷城を見られたい方向け)
観光案内所でもらったマップ(長浜観光協会作成)
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目次には次のような記事が書いております。
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ブータンの光と影シリーズ ~ブータンは本当に幸せか?~
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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
コメント
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現地で見つけられた横掛道が描かれた地図にワクワクしました!
真っ暗闇の中を息を潜めて3000の兵が山中を進む姿にドキドキします。
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現地で見つけられた横掛道が描かれた地図にワクワクしました!
真っ暗闇の中を息を潜めて3000の兵が山中を進む姿にドキドキします。
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>schocomintさん
コメントありがとうございます!
横掛道の地図がなければ彷徨ってました😲
見つけたときは秘密の道を見つけたって感じでした。
言われるとおり、秀吉が浅井が予想もしなかったルートがどんなだったか、夜に行くとどうかなど考えるとドキドキしますね。
また歴史がリアルになり、秀吉の凄さも実感できますね。
山城訪問はその入口なんでしょうね!
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>schocomintさん
コメントありがとうございます!
横掛道の地図がなければ彷徨ってました😲
見つけたときは秘密の道を見つけたって感じでした。
言われるとおり、秀吉が浅井が予想もしなかったルートがどんなだったか、夜に行くとどうかなど考えるとドキドキしますね。
また歴史がリアルになり、秀吉の凄さも実感できますね。
山城訪問はその入口なんでしょうね!