【大河内城の戦い】恐るべき支城ネットワーク

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今回、歴史に詳しくない方向けに、覚えておいた方がいい武将に※で説明をいれ更新しました。 ※以外の名前がお分かりになられないときはスルーしてください。

 

気合がはいってしまいかなりの大作となり最初から長い説明、そのあとに縄張り図と写真で紹介します。

大河内城は大河内城の戦いの舞台で、織田信長vs北畠具教です。

 

阿坂城攻撃では木下秀吉はやる気満々で自ら前線にたち、戦場で唯一負傷したことでも有名です。
 

大河内城は信長が落城させることができなかった要害堅固な城として名を馳せました。

その堅固さを是非、見に行ってください音譜

 

最初に北畠家の説明です。

 

北畠家は南北朝時代に南朝の忠臣で南北朝合一してもまそのまま南伊勢を中心に勢力を保ち、大名になっても公家としての意識を持ち続け、伊勢国司家の歴代当主の花押(かおう、文書の最後にあるサイン)は武家ではなく公家のものでした。

 

時代をさかのぼると平安末期は村上源氏中院庶流の大納言羽林家を祖とし、雅家の頃に京都北畠に住んだことから北畠と名乗るようになったようです。

 

北畠は平安時代に高い位階をもち、南北朝時代では南朝で活躍し、伊勢を任され、公家自身は武力を持ちませんが、北畠家は公家と高い位階の意識をもちながら、武力と伊勢国をもつスーパー戦国大名といえます。

 

このように北畠は公家から国司として事実上の守護権を行使した戦国三国司の一家。

のこり2家は、土佐一条家、飛騨姉小路家です。

 

伊勢北畠氏からは大河内、木造、坂内、田丸、星合、岩内、藤方、波瀬の諸氏が分かれ、それぞれ御所と称しました。

 

しかし、木造御所は北畠庶流の筆頭でしたが、幕府側についたりと宗家と対立した結果、大河内御所(大河内城)、田丸御所(田丸城)・坂内御所(坂内城)の三家が北畠三御所となり、なかでも大河内御所は代々筆頭とされてました。

 

北畠家の中でも信長と戦った八代当主具教(とものり)が有名で、具教は過去最大領土(毛利・村上水軍に負けた信長が鉄甲船製軍艦を造らせた九鬼氏も攻略しています)に広げ、剣術の達人・塚原卜伝や上泉信綱などから学び、剣術と兵法を得意とした剣豪大名ですね!

位階は正三位・権中納言で、足利将軍家は1つ上の従二位ですから、北畠家格が高いことがうかがえます。

 

北畠具教は、高いプライドとこれから説明する戦国屈指の堅固な城々をもっているため、敵も多い織田信長に戦を挑んだと思います。

 

そこで大河内城を本城として18以上の支城があったと思います。

(色々調べて、作成が大変でした。これほど詳しいのは本でもあまりないと思います)

見てのとおり、山城ネットワークの戦いです。しかも北畠陣営は籠城戦です。

南下し、大河内城攻略しようとする信長は気合がはいります。

 

貴方なら南下して大河内城をせめるとしたらどう攻めて行きますか?

 

信長はどの城を攻めて大河内城まで行ったと思われますか?

参考資料:松阪の城50選(松阪山城会著) 松坂駅前観光案内所で販売 税込1000円

この会長と電話で、おすすめの山城などのお話を聞くことができました。この本はとても内容が充実していて、一般の本より質が高く、また松坂に行きたくなります。

今後、他の北畠家山城を巡り、北畠家山城旅行プランを紹介したいと思います。

松阪山城会はたいへん実力ぞろいの方が多そうなので、テーマ性を山城ファンにより合わせた本を作成・改定していただけたら、本(成果物)がより読まれるように思いました。

テーマ例:

北畠家山城ベスト50(30?)、松阪の城50選付録三重県ベスト山城ベスト10

 

信長軍は八田城→阿坂城→大河内城でした。

入口の城を攻めて、籠城ばかりだから各支城にはわずかな兵を残し、大河内城まで直行。

かなり大胆です。

他でも反信長勢力も多いため、柴田勝家※1、丹羽長秀※2、滝川一益※3、木下秀吉と主力武将を連れてきて、リスクをおって短期決戦へ!

 

早く落とさないと背後を狙われてしまいます。

したがって、この大河内城がどれくらいもつかがこの戦いの勝利ポイントということです。

 

結果は・・・・

籠城した大河内城は信長は50日余経っても落城させられず、「信長の次男である茶筅丸(のち織田信雄に改名)を具房の養嗣子にする」などゆるい条件で和睦します。

 

もし大河内城が堅固でなかったら、具教は戦う前に降伏していたか、戦っていれば北畠一族は殺され、北畠家は断絶していたかもしれません。

このことから戦国時代における山城の重要性がわかっていただけると思います。

=====補足説明=====

※1柴田勝家:織田四天王で信長の尾張時代から一緒にいる、”信長の双璧”といわれた一人(もう一人は丹羽長秀)。勝家といって通じるぐらいの有名武将。

木下秀吉はお二人にゴマをするため、お二人の姓の一字ずつもらって羽柴秀吉と改名しました。羽柴なので柴田より丹羽の上?と思われるかもしれませんが、実際は佐久間信盛※4が追放されると、家臣No1が柴田、No2が丹羽でしたのでゴロが良かったから”ハシバ”にしたと思います。信長亡き後、織田政権の家臣No1を羽柴秀吉と争った武将(賤ケ岳の戦い)でもあります。

家臣No1で争ったでけでなく、実際どうかわかりませんが、信長の妹「お市の方」を羽柴秀吉ととりあいし、結局、思いを遂げられ、お市の方を正室に迎えることができました。

しかし、その結婚話の裏では、羽柴秀吉が清州会議(信長亡きあと織田のトップを決める会議)で、お市の方の結婚を勝家にちらかせて、秀吉は有利な条件を引き出すカードにつかったともいわれています。事実かどうかわかりませんが、歴史を武将の思いなどを焦点にあててみるとストーリーとして面白くなりますね。

※2丹羽長秀:信長の尾張時代から一緒にいる、”信長の双璧”といわれた一人。

長秀といって通じるくらいの有名武将。信長から、一字をもらって改名。長をもらった武将は二人だけでどれだけ信頼されたかが名前からもわかります。
長秀は造船や築城(安土築城の総奉行など)の行政面にも優れた手腕を発揮し、文武両道で温厚な性格だったようで、血気盛んな武将が揃う織田家臣団の中で重要な役割があったように思います。

 

※3滝川一益:織田四天王

織田信長の面前で百発百中の鉄砲の腕を披露し、召し抱えられました。織田四天王の明智光秀も鉄砲の知識があり、腕がよかったですね。
滝川一益は甲賀出身で忍者大名だったかもといわれるくらい、諜報活動が得意で北伊勢攻略では大活躍します。
石山本願寺(この場所は非常によかったため、あとで秀吉はその場所に大阪城築城)討伐では水軍大名九鬼とくんで毛利水軍が石山本願寺への兵糧や武器の搬入を阻止し、北伊勢の大名になりました。
あまりにも明智光秀とともに実力者であったため、尾張出身以外で織田四天王まで大出世しましたが、出世を望む羽柴秀吉のライバルとなり、清須会議では諸説ありますが、北条との闘い(神流川の戦い)で関東にいる一益が出席できないように羽柴秀吉が早期開催にし、秀吉は秀吉・長秀・池田恒興※5vs柴田勝家のかたちにもちこみ、秀吉は得意の調略で清須会議開催以前に勝利が確定していたように思います。

他の一益の不参加理由は、神流川の戦いの敗戦を恥じて不参加、その敗戦理由で参加対象外になった、関東にいるのでもともと参加対象外だったなどがあります。
神流川の戦いでの敗戦と清須会議欠席で、織田四天王でありながら急速に勢力が落ちていきました。

 

※4佐久間信盛:信長が家督を継いでずっと信長を応援してきて家臣No1になった武将です。

他の重臣と比較して大きな功績がなく、以下の数々の失態で追放されました。このため、名前といろいろやらかした重臣という認識だけでいいと思います。
失態例:
・武田信玄と徳川家康の対決で、信玄に手を出すなと指示をうけていましたが、家康とともに信玄に対決(三方ヶ原の戦い)し、家康は逃走中に脱糞するぐらいの大敗してしまい、、その戒めと描かせた自画像が有名になっています。
佐久間が家康を出陣をやめさせていたらどうなっていたのか、気になります。
・小谷城の戦い(信長vs浅井・朝倉)で「朝倉軍が退却したら死ぬ気で追撃せよ」と信長から厳命がありましたが、朝倉義景が退却しても追撃をせず、信長自身が少数の精鋭部隊ですぐに追撃にむかいました。そりょ、信長はおこりますけど、降格されてません。
・10年にも及ぶ石山本願寺討伐で総指揮を丸4年しましたが、何を成果があがらず、怠慢があったと信長に指摘され、追放されました。明智光秀もできがよくない身分が上の佐久間には手をやいたようです。
⇒このことから信長は実力主義といわれてますが、これほど大失態がありますが、すぐには追放せず、家督相続の恩も感じてたようで、実力主義とはいいきれないように思います。
ちなみに尾張時代から一緒にいて重臣まで出世した人は佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、前田利家、池田恒興で、尾張出身者を大事にしていたと思います。

 

※5池田恒興:信長の乳兄弟、小姓として幼いときから信長に仕え、清須会議の四人のメンバー。

映画『信長協奏曲』のつねちゃんで向井理さん、映画『清須会議』では佐藤浩市さんが演じていました。
武功をいろいろ立てていますが、他の有名武将の色が濃く、あまりめだたない存在ですが、清須会議の四メンバーだったことが人生のハイライトだったように思います。

なぜメンバーに選ばれた理由は、諸説ありますが、滝川一益が不参加として秀吉・勝家・長秀の三人だと長秀次第できまってしまうので、選定時点で中立であり、信長と乳兄弟ということで恒興が一益のかわりに選ばれたと思います。

ただ秀吉は調略が得意ですので、清須会議以前には恒興に摂津国から3郡を与える裏取引があったと思います。

=====補足説明おわり=====

 

大河内城のおかげで、具教は大河内城を明け渡し、命拾いした具教でしたが、信長に恨みをはらすため、伊賀国丸山城を築城開始したり、西上作戦の途上であった武田信玄に「信玄上洛の際には船を出して協力する」という密約を結んだり、信長に敵対する紀伊熊野勢に蜂起を勧めていたとか、降伏した身ながら反撃の工作を行っていたようです。

 

丸山城を築城開始しただけでも大罪と思うのですが、具教はおとなくできず、とうとう信長の逆鱗にふれ、織田氏の刺客に襲撃され、殺されます。

しかしこの殺され方には逸話がいくつかあり、

①太刀を手に19人の敵兵を斬り殺し100人に手傷を負わせたという逸話があったり、

②腹心の佐々木四郎左衛門尉により刀の刃を潰されており、抵抗できずに斬殺された

ともいわれています。

 

北畠具教ってすごく興味深い人物だと思われませんか?

 

上のマップで進軍ルートを考えましたが、つぎになぜそこに山城を築き、山城ネットワークを築いたかです。

ポイントは伊勢の国の主要街道は伊勢本街道(西日本と伊勢をつなぐ)と伊勢街道(東日本と伊勢をつなぐ)の防御。

・居館&霧山城:伊勢本街道沿いで吉野や大和に近く、周りは山々に囲まれ、要害堅固

 ※多気北畠氏城館として続100名城でして国名勝庭園があり、さすが公家魂びっくり

 ※信長戦では霧山城エリアでは手狭と判断し、多くの支城をもつ大河内城で籠城

・大河内城:伊勢本街道の山間部の最終地点で伊勢街道に近い

・田丸城:伊勢街道のメイン防御基地

・八田城・阿坂城・高城、枳城(カラタチ)城・岩内城・赤城・岡ノ谷城・伊勢寺城・白山城:

伊勢に南下し最短距離で大河内城に向かう敵を討つ

・脇谷城&泉ヶ久保城:大河内城の東の坂内川、北の矢津川の自然要害がない方向を守る

 

北畠家が山城設計意図がわかりやすいですね。

=====山城の位置条件=====

①水があること

②主要街道の防御できること(街道近く、街道を監視しやすい)

③自然要害が活用しやすいこと(土木工事が少なくすむ)

④なだらかな斜面が少ないこと(攻められやすいところは少なく、土木工事も少なくすむ)

⑤周辺に支城を形成しやすい地形であること(ひとつの城では心もとない)

まだありますが、筆者が大事に思うことを書き出しました。

(本やインターネットを見ていません。過去の山城攻略経験からの考察です)

※伊勢本街道

「お伊勢参りして恐いとこどこか・・・」と峠や川が歌われるほど、伊勢本街道は険しい道として知られていましたが、大和と伊勢を結ぶ最短の道として、信仰や生活等の主要道として多くの旅人で賑わいました。

=================

 

◆合戦までの経緯​

1567年、織田信長は神戸具盛、長野具藤を降し、北伊勢の八郡を獲得

 

1569年5月 滝川一益の調略により源浄院主玄(後の滝川雄利)と柘植保重が献策し、木造城主・木造具政(具教の弟)が織田側につく

すぐに弟の裏切りに腹をたてた北畠具教は木造城を包囲し攻撃

 

8月23日 木造城は持ち堪え、信長は岐阜より総勢7万(5万の説もあり)で木造城に着陣

⇒北畠軍は信長の出陣を知ると、1万6千の兵を大河内城(約8千)とその支城、阿坂城、八田城、枳城(カラタチ)、高城、坂内城、田丸城などに分散させ籠城

信長軍の参陣メンバー:柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、木下秀吉などと豪華

 

8月25日?信長軍、八田城を攻略し、阿坂城主 大宮入道含忍斎は降伏勧告を受け、拒否

 

8月26日 木下秀吉が先陣にたち阿坂城を攻撃し、自身負傷するが、落城させる。

⇒信長は他の支城はわずかな兵をおくだけで、大河内城に直行

8月28日、織田軍、池田恒興(上で説明済)、磯野員昌(かずまさ)が攻撃、大敗

→大河内城の周囲に鹿垣を2重3重に作り、降伏を待つ

 

9月8日深夜、信長は丹羽長秀・池田恒興・稲葉良通(一鉄)に夜討ちを命じる

しかし雨が降り出して鉄砲が使用不能になったため、後退

 

9月9日、信長は兵糧攻めを狙い、滝川一益に命じて多芸城を焼き討ちさせる

さらに兵糧の枯渇させるためその近辺にも放火し、住民を大河内城へと追い込ませる

 

約1ヶ月後に滝川一益が魔虫谷(マムシ谷)から攻め込んだが、滝川隊の倒れた人馬で谷を埋め尽くしたとと伝わっています。

※マムシ谷は必見です!

 

10月3日、織田家と北畠家は和睦した。

この時の和睦の条件は、
・信長の次男である茶筅丸(北畠具豊と改名)を具房の養嗣子とすること
・大河内城を茶筅丸に明け渡し、具房、具教は他の城へ退去すること

という、織田側に有利でしたが、具教は健在でした。

 

上述のとおり、大河内城のおかげで、命拾いした具教でしたが、信長に恨みをはらすため、伊賀国丸山城を築城開始したり、西上作戦の途上であった武田信玄に「信玄上洛の際には船を出して協力する」という密約を結んだり、信長に敵対する紀伊熊野勢に蜂起を勧めていたとか、反撃の工作を行っていたようです。

 

具房の養嗣子北畠具豊(信長の次男、長男は本能寺の変で死去)は清洲会議に際し、織田家の相続するため、織田信雄と改名し、北畠家は消滅しました。

 

ご参考

信長研究の第一人者とも言われる谷口克広氏は信長の北畠氏との戦いはむしろ信長方が次第に劣勢となり、足利義昭の仲介で和議に入ったとする説を出しています。

久野雅司氏は、信長が茶筅丸の入嗣を強要したことで義昭の不快感を招き、信長と義昭の対立のきっかけになった事件とする見方をしています。

 

これから大河内城の縄張図と写真の紹介です。

国道166号線沿いにこの看板があるのでそこから山の方に向かってください。

城の入り口にあった案内板
 
前で紹介しました「松坂の城50選」の縄張り図をみてても最初わかりづらく、お城もおおきかったので見学順序を作成してみました。
インターネットやユーチューブ動画をいろいろ見ましたが、これだけで詳しくみたものはなかったです。
さらに効率よく周れるように見学順もいれました。
マムシ谷に下りるのは基本ルートではないため、行く際は自己責任でお願いします。
下手をすると滝川軍のようにマムシ谷でやられてしまいます叫び
①本丸と②西の丸にはマムシ谷を新しく作られた橋でわたります。
 
③堀切
 
④堀切

 
⑤マムシ谷

 
マムシ谷から上の⑥曲輪へ ※基本ルートではないため要注意

 
⑤マムシ谷から上の⑥曲輪へ ※基本ルートではないため要注意

 

⑤マムシ谷から上の⑥曲輪へ ※基本ルートではないため要注意

 
⑦石垣

 
⑧大堀切へ 

 
⑧大堀切 大堀切はやぶだらけでした。

 
⑧大堀切 大堀切はやぶだらけでした。

 
⑨つぶて石 投石用

 
⑨マムシ谷の入口 ここから奥に行った滝川隊は大惨敗。おそるべしマム谷ガーン

 
⑬曲輪の側面

 
⑬曲輪の側面 二段の石垣です。

 
以上、北畠家と大河内城に情熱で時間をかけて大作となりました。
皆さん、いかがだったでしょうか?
よろしければコメントをいただけますとありがたく思います。

 

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最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

コメント

  1. schocomint より:

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    PASS:
    毎回楽しく記事を読ませてもらっています。
    すごいスピードで詳しく記載されているのでびっくりです!
    松坂周辺にこんなに多くの山城があったことすら知りませんでした。
    歴史も確かでない記憶ばかりで、人物名、歴史的事実が結びつかなかったりしますが、そのあたりも詳しく説明して頂いているのでよくわかります。関連事項もちょこっと補足してあり嬉しいです♪
    背景や人物像や土地勘を頭に入れた上で、合戦の経緯を読むと、全くの命懸けのサバイバルゲームです!
    最後の写真も興味深く見ました。

  2. schocomint より:

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    毎回楽しく記事を読ませてもらっています。
    すごいスピードで詳しく記載されているのでびっくりです!
    松坂周辺にこんなに多くの山城があったことすら知りませんでした。
    歴史も確かでない記憶ばかりで、人物名、歴史的事実が結びつかなかったりしますが、そのあたりも詳しく説明して頂いているのでよくわかります。関連事項もちょこっと補足してあり嬉しいです♪
    背景や人物像や土地勘を頭に入れた上で、合戦の経緯を読むと、全くの命懸けのサバイバルゲームです!
    最後の写真も興味深く見ました。

  3. SECRET: 0
    PASS:
    >schocomintさん
    コメントありがとうございます。
    日頃から山城と記事の展開とか考えるようになってます(笑)
    山城は結構多いのですが、北畠氏だけあって山城堅固レベルが高いと思います。
    私も書きながら、勉強してるという感じで、知らなかったことも結構多いです。
    記事のコンセプトは、ある武将に焦点をあてて、何を考え、どんな成果があって、どんな能力が高いかなど、人間からリアルに感じる歴史を知ってもらいたいって感じです。
    またその歴史で山城がどう関わっているかも知って頂きたいところです。
    サバイバルゲームと感じてもらってて嬉しいです🎵
    多分、覚える、昔のことの歴史から、ストーリーを楽しみリアルに感じる歴史にかわってこられていると推察いたします。

  4. SECRET: 0
    PASS:
    >schocomintさん
    コメントありがとうございます。
    日頃から山城と記事の展開とか考えるようになってます(笑)
    山城は結構多いのですが、北畠氏だけあって山城堅固レベルが高いと思います。
    私も書きながら、勉強してるという感じで、知らなかったことも結構多いです。
    記事のコンセプトは、ある武将に焦点をあてて、何を考え、どんな成果があって、どんな能力が高いかなど、人間からリアルに感じる歴史を知ってもらいたいって感じです。
    またその歴史で山城がどう関わっているかも知って頂きたいところです。
    サバイバルゲームと感じてもらってて嬉しいです🎵
    多分、覚える、昔のことの歴史から、ストーリーを楽しみリアルに感じる歴史にかわってこられていると推察いたします。