千葉氏宗家、悲運の地となった多古城の紹介

◎山城
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2023年3月5日多古町城郭ウォーキングツアーで多古城に行ってきましたので紹介いたします!
また、あなたも”多古城のバーチャル攻め”を体験できる内容にしました!お楽しみに♪

【アクセス】
東京駅から多古台バスターミナル行き高速バス、または成田空港から多古町シャトルバス、「多古台バスターミナル」下車。
多古町の位置の確認です。東京の東で、香取市の南です。

【歴史】
多古城は、平安時代から西国と蝦夷・東北をつなぐ重要な交通要所にあり(詳細はコチラ)にあり、栄えていたようです。

1454年(1455年?)の享徳の乱で大叔父の馬加康胤(まくわりやすたね、第14代当主千葉満胤の次男)により、多古城は包囲されました。
籠城していた第18代当主千葉胤宣は、逃亡者が増え、配下が20人あまりになり、ついに降伏を申し出て、城外の阿弥陀堂に入り、切腹したと伝っています。
ここで千葉氏宗家(ちばしそうけ)は滅亡しました。

馬加康胤は千葉氏宗家を乗っ取るため、第16代当主千葉胤直とその弟胤賢を打倒しましたが、胤賢の子実胤自胤を打ち損じ、千葉実胤・自胤兄弟は武蔵に落ち延びました。
千葉康胤(宗家が滅亡後、馬加康胤から改名)は千葉氏宗家を滅亡させましたが、家系では、より宗家の近い千葉実胤が存命で、お互いが千葉氏宗家を名乗ったため、千葉康胤は下総千葉氏、千葉実胤は武蔵千葉氏と呼称されました。

山城ファンでは、千葉氏の山城では本佐倉城がすごく有名ですが、これは下総千葉氏の居城です。また、下総千葉氏は千葉氏宗家を継承したともいわれています。

【山城の説明】
今回は途中の説明から、あなたはこの多古城を攻めることになってどんな山城かを体験してもらいます!

縄張図は多古城郭保存活用会より入手

以下、上手の番号で撮影ポイントも併せて写真と説明をいたします。
①多古台バスターミナルにあった案内板

②多古台ターミナル前から北東に進み、大宮大神前です。

③道路を右の小道に入ると多古城の案内板があります。

④多古城の北半分は開発され、バスターミナルや住宅地になっています。開発前は下の地面はこの撮影したところと同じ高さの台地でした。さらに、削ったところは弥生時代の住居あったようで、この多古町に佐賀県の吉野ケ里遺跡規模の集落があったとのことでした。

⑤下が空堀です。梅がともてきれいです!

⑥空堀にある案内板

⑥空堀にある案内板拡大 

⑥空堀にある案内板拡大

⑦敵はここのルートから攻めてきます。戦国当時はこのような登りやすい階段ではないためあがりづらかったと思います。
さぁ、これから多古城のバーチャル城攻めのはじまりです!
この奥からあなた
は階段をあがって、この多古城を攻めるとします。

⑦あなたは階段をあがるとこの写真の奥からここにたどりつきます。

写真は敵側視点です。この道をあがってくるとあなたはこの奥にでてきます。奥からでてきたあなたは敵はどうするでしょう?両側から竹やりで刺してきそうですね。これで柵が両側にはられていたらかなりやばいですね。
あなたはなんとか、うまくかわし突破しました。前にすすみます!

するとこの空堀の底である、この撮影ポイントにたどり着きます。

高さは人の大きさからみると5mぐらいの深さ(戦国当時は7mぐらいあったように思います)ですので空堀から上にあがれません。さらに、上の両側と正面(人がみえるところ)から矢と鉄砲玉でとんできてます。
考えている時間はありません。この先に不安をもちつつも、あなたはまっすぐ行って右に曲がるしかないです。

⑥空堀 

写真は敵側の視点です。階段をあがってきたあなたはこの奥からでてきます。
あなたはここの手前まできて、左にまがるようになります。敵からすると、狙いやすいですよね。ここもかなり危険なところです。

右にまがるとこんな感じでした。

戦国当時は奥の石はなく、空堀がつづき、次は左にまげられます。
その間、両側から矢と鉄砲玉がとんできます。

⑥⇒⑤へ

写真は敵側視点です。あなたは右にまがったら、守備兵からこのように見えています。やはり敵のえじきになりそうです。戦国時代は左の石や土はなく空堀がつづきます。

 

最初に出した縄張図をまた出します。空堀をすすむあなたへの種明かしです。

階段をあがると⑦から攻めはじめたあなたは空堀の上にあがることができず、青の空堀を伝いに⑦⇒⑥⇒⑤⇒③と進みます。③は最初の方の写真で梅の木があったところです。
くねくねなので先がわからない不安と、両側と正面から矢や鉄砲玉がとんできて、とっても恐ろしいことでしょう!
さらに、運よく当たらず、空堀伝いにすすむとなんと城の外にでるんです!
びっくりしますね。
ということは⑦からはいるあなたの正解ルートは左側の急な坂をのぼらないといけないってことです。
でも登ってたら、上から竹棒でさされますよね。
⑦からの攻撃は不可能ということでしょう!
⑦の入り口は無理だと味方から情報がはいったとします。そしてら多分、⑦周辺の坂を上ろうとします。そうすると帯曲輪がつくられていますね。
山城の設計ってかなり奥深いと思いませんか?これで、自分や家族・親族の命をまもる山城なんで、設計や土木工事に気合いがはいりますよね。

⑧帯曲輪から東側。

⑦の階段がやばいとなったら、⑦周辺の下からあがることになると思います。かなり急であがるだけで大変そうです。
さらにこの撮影ポイントでは多分、柵がはられていたと思います。
あがってきたあなたは柵を倒そうとして、竹棒でぐさりですね。
バーチャル城攻めはここでおしまいです。

城攻めをイメージはできましたでしょうか?
よろしければ最下部のコメント欄からご感想をお願いします!

⑥帯曲輪です。ここは帯曲輪でこの周囲に柵をめぐらしていたと思います。

⑧帯曲輪から西側⑨のです。ここは自然の崩れのようで、昔の遺構が残っています。

⑨帯曲輪の上をあがるとここにつきます。また空堀の右上でもあります。

⑧帯曲輪から⑨にあがってきたところです。

⑨には土塁があります。立派で、よく残っています。

⑨の土塁から空堀をみた風景です。

⑨ガイドさんがこの土塁は胸壁土塁とのことで実演していただけました。ここから鉄砲で空堀の敵を射撃ですね。この遺構は豊臣秀吉の小田原征伐に向けての整備と考えられています。

⑨筆者も胸壁土塁で体験してみました。あなたはこの下の空堀の左から右へ走ってるともいます。

⑨上写真の別方向も撮影。あなたはここの下を多分走って突破しようとしていると思います。ここが最初に右にまがるところです。

⑥空堀から⑫物見台に向かう途中の道です。

⑩物見台の下です。多くの梅の木があります。

⑩上写真の同じ位置。 
⑫物見台から⑩をみています。

⑩物見台から少し降りてみました。⑪物見台の下です。かなり急で上りづらいです。

⑫から⑬に降りる途中です。ここには門でもあったでしょうか。
⑬ここは竹だらけで降りられません。とってもかなり急でした。 

北半分が開発されてますが、南半分は大空堀と帯曲輪と物見台が残ってました。
以上、多古城はいかがだったでしょうか。

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最後までよんでいただきありがとうございます。

 

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