【和歌山城】豊臣政権No2がなぜ統治?なぜ紀州御三家が?

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和歌山市のシンボル和歌山城は平山城で豊臣秀吉の弟秀長が築城、徳川時代に改修され、土の城が好きな筆者にはあまり魅力を感じないのですが、実際に行ってみて、和歌山県ベスト山城を選定する中で、いろいろ調べてみてると和歌山城の重要性や歴史が面白いと思いましたので、今回、個別で紹介することにしました。

今後、山城ブログでいい山城を紹介するだけでなく、歴史が面白いお城も紹介したいと思いました。

今の和歌山市は雑賀野として戦国時代以前から大都市で、日本でベスト10にはいるような大都市だったといわれています。
理由は下図からわかるように海運・水運・造船技術・交易です。
太平洋から大坂、京都へ行く際は和歌山市の前を通る、海運の要所です。
また大和王権のある大和盆地と紀ノ川を通じて繋がっており、古代から土地にめぐまれた場所でした。
戦国時代になって紀伊守護北畠家の勢力は衰え、紀伊には戦国大名がおらず、雑賀衆(さいかしゅう)、根来寺(ねごろじ、根来衆)・湯川氏などがいるだけで、農夫は大名から搾りとられることがなく、この地を訪れた宣教師ルイス・フロイスは「裕福な農夫」と言いました。
雑賀の【雑】は多くの恩恵を与えてくる海や川を表し、【賀】は繁栄や発展を表しています。

雑賀衆について説明します。
雑賀衆は5家の集団の総称で、雑賀衆で有名なのは鈴木氏と土橋氏(つちはしし)です。
土橋氏は村上源氏で平安時代末期に越前から雑賀に住み着いたとれ、鈴木氏は熊野本宮大社の別当をつとめる名家で、その分家が雑賀に移住してきたと伝わっています。
雑賀衆は海側(海運業・商人、鈴木家・土橋家の2家)、陸側(農業・林業で3家)に分かれ5家の集合体です。
雑賀衆7万石でリーダーの鈴木家はたった1千石だけですが、名家であり、兵力(雑賀衆全兵力1万の半分)・財力がある鈴木氏で、雑賀孫一の名も世襲制でした。

土橋家は雑賀衆以外との集団(根来衆など)との関わりが深く、人的な面で有力でした。
根来衆は72万石の寺領が多く、雑賀衆と同様に傭兵軍団でもありました。

さて、雑賀(和歌山市)は海運の要所で海運が発達していたことで、雑賀(和歌山市)の発展に大きく関わったものが手に入れられました。

皆さん、なんだと思われますか?

それは種子島に伝来した火縄銃です。

では和歌山市の発展に貢献した人は誰でしょう?

筆者は根来寺の津田算長(かずなが)と思います。
彼は種子島の伝来した2丁(約2億円くらい)のうち貴重な一丁を手に入れ、根来寺に持ち帰ったことです。
ほどなく雑賀衆に伝わり、やがて根来寺・和泉堺・近江国友が一大産地となり、大量生産されました。
雑賀衆は造船技術に長け、海運業・商人であったため、当時南蛮貿易の拠点、舶来の珍奇な品が手に入る種子島と交易をしてました。
そこで津田が火縄銃の存在を知り、根来寺に持ち帰りました。
これが戦国時代の戦い方の変える大事件だと思います。

津田算長の次の重要人物は皆さんがよくご存じの鈴木孫一(雑賀孫一、雑賀孫市、鈴木重秀、鈴木重次など謎がい多い人物)と思います。

鈴木孫一は雑賀衆で一番の鉄砲名人でした。
雑賀衆は多くの火縄銃を所持し、日本最強傭兵軍団として、戦場に行っていました。
そのため、自分の土地を守るよりは他国の戦場に行くというかんじで、堅固な山城は築いておりません。

火縄銃の産地である根来寺と堺は雑賀に近く、雑賀には海運業や商人として稼いだ豊富な資金で、大量購入し、火薬の原料となる硝石は堺から入手しました。
そのため、雑賀衆は火縄銃を8千丁持っていたとされ、長篠の戦いでの信長でも1千丁(過去は3千丁といわれてました)ほどしかなかったようで、雑賀衆は日本最強傭兵軍団だったと言えます。

他には根来衆も鉄砲集団で当時はこの2つしか鉄砲を自在に扱える集団はいませんでした。
したがって、雑賀衆、根来衆を傭兵を雇うことが戦勝にかかわるようになっていきます。

鈴木孫一が大活躍したのが、信長vs石山本願寺の石山合戦の中で天王寺の戦い(1576年5月)です。

石山合戦の幕開けとなった三好軍vs織田軍(野田城・福島城の戦い)では雑賀衆の一部は信長軍におり、雑賀衆は5家の連合体で一枚岩でなく雑賀衆同士でガチで戦ってました。
なぜ分かれたというと雑賀衆の信仰宗教は様々で、石山本願寺門徒vs石山本願寺門徒以外の足利義昭将軍(信長側)で分かれ、お金次第で雑賀衆同士が戦いました。

そして信長が足利義昭を追放すると、足利将軍がついていた雑賀衆は反信長派の石山本願寺側につき、雑賀衆の多い時は7千人が石山本願寺に籠城したといわれています。

1570年に始まった石山合戦では雑賀衆の活躍により本願寺が有利で、信長はその戦局を打開すべく、石山本願寺の主力であり、兵員・物資の補給拠点である雑賀を攻撃することにしました。

紀州征伐といわれてますが、雑賀衆の東部(陸側三家)、根来衆、太田党は信長側についていますので、実質は鈴木孫一討伐になります。

そこで鈴木孫一は数千の兵で信長軍10万を迎え撃つべく、本城の隣の山にある弥勒寺山城を中心として北に東禅寺山城・上下砦・宇須山砦・中津城、南に甲崎砦・玉津島砦・布引浜砦を築き、川岸には柵を設けて防衛線をはりました。

初戦は鈴木孫一軍の勝利に終わり、以後、ゲリラ戦の膠着状態となり、雑賀衆が降伏しましたが、大坂に関与しないという誓いだけで信長は赦免しました。
これを考えると雑賀衆の実質的な勝利となります。

しかし孫一は赦免された四ヶ月後には反旗を翻し、信長に味方した雑賀衆(陸側三家)に報復を始めました。
信長は佐久間信盛父子を大将に7万人を動員しますが、制圧に失敗しています。

翌年には信長は再度、紀伊征伐に行います。ここでは雑賀衆に周辺勢力が加勢しました。
太田城を1ヶ月包囲(第一次太田城の戦い、豊臣政権での第二次ではこの太田城を水攻め)しますが、落城させることはできませんでした。

織田信長は結局、雑賀を征服できませんでした。

その後、朝廷の和解申し出で石山本願寺と信長の和睦が成立し、顕如は石山本願寺(豊臣秀吉はここに大坂城を造ります)をでて雑賀に移住します。その移転先の1つが、孫一が信長軍に勝った弥勒寺山寺があります。

鈴木孫一は顕如からの傭兵依頼がなくなったため、ビジネス先に、あれほど裏切った信長につきます。
孫一は雑賀衆の中の反信長集団(土橋家など)を攻め、鈴木と並ぶ勢力の土橋家に勝利します。
鈴木孫一も織田信長もあれだけ争いましたが、Win-Winの関係を考えて味方同士になりました。
さらに孫一は雑賀水軍を織田信孝の四国征伐に協力するなど、信長との関係を深めていきました。

しかし、ビジネスリーダーとして有能だった鈴木孫一ですが、本能寺の変により、ビジネス先・後ろ盾をなくしてしまいます。

その後、土橋氏を中心とした反鈴木家の報復をおそれ、雑賀を脱出し、秀吉を頼ります。
孫一のいない雑賀衆は反秀吉となり、孫一は雑賀衆と決別することになります。

秀吉の紀伊征伐では孫一は紀伊までの道案内をかってでたり、太田城の水攻めでは降伏をすすめる使者となったりしています。
ここで太田城は降伏し、雑賀衆・根来衆は解体されました。
雑賀衆のリーダーであった孫一によって雑賀衆が終焉するとは意外な結末です。

その後の一説では、1600年関ヶ原の戦いに先立つ伏見城の戦いで西軍に属し、鳥居元忠(もとただ)を打ち取る大戦功をあげています。他に水戸藩の旗本になったとか、伊達政宗の家来となり火縄銃術を伝授したとかいろいろな伝説があります。

鈴木孫一はすぐれたビジネスリーダーであり、今も和歌山市の地元で愛され、「孫市まつり」が毎年開催されています。

まとめますとこれほど雑賀衆が強かった要因は次のとおりです。
◆地理的要因
・火縄銃の産地根来寺と堺が近かった。
・古代から海運業がすすみ、多くの商人がいて豊富な資金で火縄銃や火薬を大量に購入できた
・火薬の原料の入手は一般的に難しく(信長がコントロールしていた)、入手先となる堺が近く、海運業や商人として他より入手しやすかった
※これが一番重要かもしれません。長篠の戦いで武田軍は多くの銃をもっていたが、火薬(硝石)不足が敗因の主要因の1つと最近いわれています
◆人的要因
・鈴木孫一という統率力・戦術に長けたスーパーリーダーがいた

信長が亡き後、秀吉は気になる地域は大坂城に近い紀伊、四国、次に九州でした。
中央集権化を目指す秀吉は早速、信長制圧できなかった紀伊の征伐にでます。

秀吉は根来衆を討伐しましたが、信長も落城できなかった太田城攻略に苦戦します。
ここで秀吉お得意の堤防を築き、水攻めをして、落城させました。
これは日本三大水攻めの1つで、他に備中高松城(本能寺の変のとき水攻め中)、忍城(映画「のぼうの城」の舞台)です。

この水攻めで興味深い事件がありました。
忍者で有名な甲賀衆も堤防を作っていたのですが、担当した堤防が崩れ、味方に多くの死傷者をだし。水攻めが一時中断してしまいました。
秀吉は根来衆、雑賀衆、石山本願寺、加賀一向衆、伊勢一向宗など大名に属さない自治集団は、自発的に参戦しているため非常に強く、警戒していました。

今回、その自治集団である甲賀衆の大失態。これぞ、いい口実ができたとのことで、 甲賀衆が治めていた甲賀をとられてしまいました。
とういうのも、秀吉は大坂を本拠として、東側の北国街道(福井方面)、東山道(岐阜・長野方面)、東海道(愛知・静岡方面)からの敵を守るためには近江(滋賀)が最重要拠点で、甲賀衆が邪魔でした。
ここぞとばかりに甲賀衆を追い出して、水口岡山城を築城し、安土城の城下を八幡山城に移し(楽市楽座も移転され、ここで近江商人がうまれます)、子豊臣秀次を城主として、支城として水口岡山城、佐和山城、長浜城、竹ヶ鼻城で東の防御ラインを構築しました。

秀吉は紀州討伐の際、和歌浦を遊覧し、風光に感動したとされています。
雑賀統治の場所を検討した結果、和歌浦の北に位置する岡山という山に城を築き、その城を和歌浦から和歌山城と名付けました。
そのため、今はその和歌山県、和歌山市の由来になりました。
秀吉が名付け親とはびっくりですね。

和歌山城の築城は弟の豊臣秀長に任せ、雑賀を統治しました。
秀長といえば秀吉の弟で秀吉政権N02ですから、雑賀を抑えることは超重要だったことがわかります。

秀吉が死去し、徳川政権になると一番気になるのは秀頼がいる大坂城。
そこを抑えるために大坂城包囲網をしきます。
大坂城包囲網の外側で謀反されて一番困るのはどこと思われますか?

筆者は大坂に比較的近い播磨、近江、大和のどこかで秀頼側について謀反を起こしたとしても周辺に多くの鎮圧軍が構成できますので、それほど脅威はありません。

しかし、雑賀(和歌山市)で反乱が起こったらどうでしょう?
この地域は熊野があることで鎮圧しづらいのです。それも信長が制圧できなかった雑賀衆が復活したらと考えたら、近畿の最大の要所は雑賀になります。

さらに雑賀の蜂起で示し合せて四国からも挙兵したらいかがでしょう?
四国から大坂城に直接、入城されてしまいます。
雑賀には豊臣秀長が築城した立派な和歌山城があり、家康はラッキーとばかりに御三家の紀伊家を置いたと思います。
以上から御三家が雑賀(和歌山市)に置かれた理由がお分かりになるかと思います。
陸地の端は要注意という例で他にも家康は小田原征伐後、千葉房総半島南端の里見氏の警戒のため、その北側に徳川四天王「本田忠勝」を大多喜城に置きました。
和歌山市の成り立ちをまとめます。
・地理的な要因で海運業・交易・造船技術が発達していた
⇒津田算長が火縄銃をいち早く根来寺にもたらし、量産化
⇒入手難である火薬原料調達先の堺に近く、海運業・商人であった雑賀衆は他者より入手しやすかった
⇒雑賀衆・根来衆が日本最強傭兵軍団となった
⇒石山本願寺顕如・織田信長・豊臣秀吉は雑賀を重要視した
(雑賀衆は石山合戦や雑賀征伐で信長に負けなかった)
⇒秀吉はようやく雑賀・根来寺を制圧し、危険エリアとして弟秀長に和歌山城を築城し、統治させた
・徳川家康は大坂城の豊臣秀頼の監視として最重要エリアを雑賀とし、紀伊御三家をおいた
⇒御三家が置かれた和歌山市は、以後、材木(紀伊国屋文左衛門)や備長炭(備中屋長左衛門が高級炭・備長炭として売り出す)などで栄えました。

以上、地理的要因から和歌山市の発展を説明いたしました。
みなさま、いかがだったでしょうか。

 

これから和歌山城の訪問したときの写真紹介です。
お城の北東からみた石垣とお堀

今の天守閣の隣に本丸御殿がありました。手狭に二の丸で政務が行われるようになります。

本丸御殿跡からみた天守閣。ここがパンフレットにフォトポイントになっていました。

和歌山の低部は豊臣秀長が造り、天守閣を含む上部は徳川時代に築城されました。

西の丸庭園の鳶魚閣と御橋廊下

復元映像(わかやま歴史館)

ここも石垣の刻印が多いです。
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■番外編 和歌山城の近くに3つのお城がありますので、紹介します。
1.弥勒寺山城
最寄り駅JR紀三井寺駅 徒歩30分 または和歌山城から徒歩40分
ここは山城の遺構は一切ないのですが、織田信長の紀州討伐(雑賀孫一征伐)のとき、この弥勒寺山城で待ち伏せして、信長軍を撤退させた場所(雑賀合戦)です。
川に壷など沈めて、信長軍が川を渡ったときに壷で足をとられ、混乱した信長軍に鉄砲をうちまくったといわれています。

石山本願寺を退去した顕如がここに住んでいました。
木が多く、景色は一部だけです。
2.雑賀城
弥勒寺山城から徒歩17分で雑賀衆の本城の雑賀城があります。
雑賀衆は鉄砲傭兵なので、山城には力をいれておらず、期待するような遺構はないです。

ここからの景色はよかったです。

3.太田城
和歌山駅の東すぐに太田城が以前ありました。遺構はほとんど残っていません。
太田城は日本三大水攻めの一つ。他は岡山市の備中高松城、埼玉県行田市の忍城(映画「のぼうの城」で有名に)があります。
城の遺構はほとんどなく、堤防の一部が見れます。
以下はわかやま歴史館でもらった太田城パンフレットの一部です。
⑨水攻め堤、⑥堀跡などがあります。

堤が少し残っています。備中高松城、忍城もそれほど多く残ってませんでした。
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