【七尾城】上杉謙信が力攻め落城できなかった堅城&新ルート発見

スポンサーリンク

山城から歴史を楽しく学び、山城をさらに理解するための記事です。

 

今回は七尾城に行ってきました。次の2部構成で紹介いたします。

1.七尾城関連情報(概要・歴史・城主・合戦など)

2.新ルートの発見報告と七尾城写真紹介

なお、武将がたくさんでてきますが、重要人物は説明をいれております。わからない武将はスルーしていただいて大丈夫です。

 

■七尾城概要
七尾城は日本五大山城※1で、山上から山麓までの自然地形を巧みに利用し、七尾の地名の由来となった七つの尾根筋を中心に城下の町並みも含めた総構えが形成され、京風の能登畠山文化で繁栄しました。
※他の4山城(所在:主な城主)
・小谷城(滋賀県:浅井長政)
・観音寺城(滋賀県:六角義賢)
・月山冨田城(島根県:尼子経久)
・春日山城(新潟県:上杉謙信)

七尾城の戦い 

1576-1577年、能登北畠家※2vs上杉謙信
一次の戦いでは、上杉謙信を退けました。かなりの堅城です。
二次の戦いでは、織田信長の援軍を待ち、10ヶ月に及ぶ籠城戦が続く中、城内で疫病が起こり、病死者が相次ぎ、幼君の畠山春王丸までも疫病で死去してしまいました。
これで落城すると思った重臣遊佐氏と温井氏(両家とも七尾城に屋敷跡があります)は上杉謙信に寝返り、信長に援軍要請して降伏に同意をしない重臣・長 続連(ちょう つぐつら、屋敷跡があります)を暗殺し、長家一族を皆殺し、城門をあけてしまい、七尾城は落城しました。
もし疫病が発生していなければ織田信長の援軍(総大将柴田勝家)が来て、上杉軍を退けていたと思います。

======補足説明=====

※2能登畠山氏は畠山満慶(みつのり)を祖とし、170年間にわたって11代続きました。
【能登畠山氏の歴史】
・能登畠山氏は畠山氏の分家

・畠山氏は室町幕府No.2の管領につくことができる名家(三管領:斯波・細川・畠山)

・分家以前は河内(大阪府東部)・紀伊(和歌山県)・越中(富山県)・能登(石川県北部)の4カ国を治める守護大名

3代将軍足利義満のとき、北畠家の当主は北畠満家になるはずでしたが、義満に嫌われていたため、満家の弟「畠山満慶」となりました。
将軍義満が亡くなると、北畠満慶は兄に当主の座と河内・紀伊・越中を譲り、自分は能登だけ残し、能登守護大名となりました。
このことは、当時父子兄弟が相争う時代にあって稀にみる美談であったため、以後、満慶の子孫が能登守護職を世襲して能登畠山氏が成立しました。

===========================

 

手取川の戦い 

1577年、信長軍柴田勝家vs上杉謙信
七尾城が落城と知らず、手取川を渡った柴田勝家※3
上杉謙信に猛攻撃にあい、大敗。
羽柴秀吉も従軍していましたが、手取川を渡る前にしっかり状況を把握したほうがいいと柴田勝家に進言をしますが、受け入れず、喧嘩別れして秀吉は軍法違反をして退却。秀吉のことですから、信長への言い訳のため、「権六(総大将・勝家)様に帰れと言われたから帰ってきました」といえるように喧嘩別れの状況をつくったことでしょう。

 秀吉は命令違反というハイリスクを犯した理由は謎とされています。ここで運のいい秀吉。信長のもとに帰った秀吉でしたが、松永久秀の謀反がおこり、その討伐で功をたてたため、命令違反の罪はとわれませんでした。

 秀吉は最初家臣団がいなかったため、どう家臣になってもらうかを一番重要に考え生き、「人たらし」といわれるようになったことでしょう。多分、秀吉は人の悪口は言わないタイプで、信長には、勝家の大失態の悪口はいわなかったと思います。
 

=====補足説明=====

※3柴田勝家:織田四天王で信長の尾張時代から一緒にいる、”信長の双璧”といわれた一人(もう一人は丹羽長秀)。勝家といって通じるぐらいの有名武将。

木下秀吉はお二人にゴマをするため、お二人の姓の一字ずつもらって羽柴秀吉と改名しました。羽柴なので柴田より丹羽の上?と思われるかもしれませんが、実際は佐久間信盛※4が追放されると、家臣No1が柴田、No2が丹羽でしたのでゴロが良かったから”ハシバ”にしたと思います。信長亡き後、織田政権の家臣No1を羽柴秀吉と争った武将(賤ケ岳の戦い)でもあります。

家臣No1で争ったでけでなく、実際どうかわかりませんが、信長の妹「お市の方」を羽柴秀吉ととりあいし、結局、思いを遂げられ、お市の方を正室に迎えることができました。

しかし、その結婚話の裏では、羽柴秀吉が清州会議(信長亡きあと織田のトップを決める会議)で、お市の方の結婚を勝家にちらかせて、秀吉は有利な条件を引き出すカードにつかったともいわれています。事実かどうかわかりませんが、歴史を武将の思いなどを焦点にあててみるとストーリーとして面白くなりますね。

=======================================

 

■手取川の戦いのあと
上杉謙信について

 織田信長軍に大勝し、能登と加賀を手にいれました。

 しかし、上杉謙信は足利義昭を将軍へ戻して足利幕府復活のための進軍準備ができておらず、関東の結城氏の援軍要請などもあり、越後に帰ってしまいます。
 本願寺、毛利輝元、上杉謙信の同盟が成立し、さらにこれに呼応して松永久秀の謀反と信長包囲網が活発となり、信長が窮地に陥ります。

 さらに荒木村重も謀反を起こしますので、上杉謙信が越後に帰らず、京都まで進軍していれば足利義昭は将軍となり、織田信長の天下は終わり、江戸幕府はなく、戦国時代はしばらくつづいていたと思います。

 上杉謙信は「義」「軍神」「最強武将」などもてはやされ、人気がありますが、将来ビジョンを明確にしてそれに対する行動や人材育成・活用ができていなかったと思います。

 もし明確なら、足利幕府の再興は関東管領であり、幕府の代理人ともいえる謙信には重要事項であり、自分の死去による家督争いは起こらなかったと思います。

 死去の原因はいろいろあると思いますが、お酒が大好きで飲む量はかなりのものだったといわれ、死要因の一つだったと思います。

 徳川家康・毛利元就・島津義弘・伊達政宗・織田信長は特に健康に気をつかっていたようです。健康に気遣うのも武将能力の超重要能力と思います。なぜなら、徳川家康が5年早く亡くなくなっていたら、徳川幕府はなかったように思います。

 上杉謙信は自分の体を大事にしてなかったところから先をあまり考えない性格のように思います。また、「義」の合戦で勝っても部下への報酬なしです。謙信の「義」のために命をかけてもただ働きさせられる部下や兵はたいへんだったと思います。

 室町幕府の再興、義の戦い、お酒大好きを考えると謙信は秩序を重んじた自己満足派のように思います。

 上杉謙信は戦場での流れを読む力はズバ抜けていて、戦は負けない。最強レベルは確か。

織田信長・明智光秀について

 武田信玄の死去で弱まった信長包囲網でしたが、手取川の大敗で、再び窮地に追い込まれますが、信長は運がいいことに、手取川の戦いの半年後、上杉謙信は1578年に48歳で病死し、上杉家内は相続争いになり、信長包囲網離脱となりました。
 さらに明智光秀が丹波攻略で黒井城主であり、「丹波の赤鬼」と称される赤井直正により退却させられてましたが、その直正1578年、50歳で病死し、以後、明智光秀が丹波攻略成功。

 もし赤井直正が長生きしていたら、明智光秀は丹波攻略は難航し、信長から秀吉の中国遠征を手伝うように言われることがなく、本能寺の変は起こらず、信長は全国統一していたかもしれないです。
 信長の詳細は次をご覧下さい。

 

 

長連龍(ちょう つらたつ)について

 織田信長への援軍要請で七尾城をでていた長連龍は遊佐氏・温井氏による長家一族皆殺しを避けられ、連龍は織田信長に仕えて再興を果たしました。信長没後は前田利家に仕え、利家を軍政両面で支え、生涯41回の合戦に参加して勇名を馳せました。
 前田利家は、死去する直前に嫡男の利長への遺書では、長連龍と高山右近の二人は役に立つ人材であると評しています。
 長連龍は前田家の主君だった信長に仕えて所領安堵をうけていたため、他の前田氏家臣と違って知行の面では独立大名のような強い権限を保持しており、加賀藩の中では「八家」と称される最上級の重臣でした。

前田利家について

 上杉では家督を争うお家騒動があり、上杉勢力は落ち、能登・加賀・越中は信長領土になり、前田利家は七尾城主、佐々成政は富山城主となりました。 前田利家は経済発展のため、七尾城をでて、七尾城近くで港に近い、能登・小丸山城に移り、その後、加賀・金沢城に居城をうつします。
小牧・長久手の戦い(羽柴秀吉vs織田信雄・徳川家康)において、北陸では秀吉軍・加賀(石川県南部)・前田利家vs越中(富山県)・家康軍・佐々成政となります。 小牧・長久手の戦いでは羽柴秀吉は織田信雄と和睦が成立し、徳川家康は大義名分を失い、仕方なく撤退。以後、前田利家は秀吉政権No2として家康と対抗し、加賀100万石の礎を築きました。

 

ここで柴田勝家と前田利家と佐々成政の関係について話します。

・賤ヶ岳の戦い(羽柴秀吉vs柴田勝家の織田家臣No1を決める戦い)開戦時、利家・成政は共に柴田勝家の与力(部下)

 ※府中三人衆:越前国の柴田勝家の与力として同国府中一帯を治めた不破光治・佐々成政・前田利家の総称

・秀吉の反撃中、勝家や柴田全軍が”ここで利家のがんばりを見せるべき”という一番大事な場面で柴田勝家を裏切り、撤退

 ⇒重要な場面で離脱して、勝家軍は総崩れ、利家が逃げたんだから、他の武将も退却となり、利家の退却時点で勝敗は決定(最初は柴田軍が優勢でした)

◆関ヶ原の戦いと比較

 勝敗を決めた小早川秀秋の裏切りは非常に悪く言われていますが、利家の裏切りはほとんど言われておりません。では裏切りレベルで比較してみます。

 石田三成や大谷吉継は秀秋が裏切る想定があったので大谷はずっと注視してました。家康側に寝返っても吉継は応戦し押し返す場面もあったようです。しかし、利家の裏切りは(勝家が1番頼りにしている)利家が1番、活躍すべき大事な場面で離脱し、勝家軍がすぐに総崩れになりましたので、小早川秀明の裏切りよりかなり裏切りレベルは高いと思いますびっくり

 退却中の勝家は利家のもとに寄りました。、さぞかし、利家は気まずかったでしょう。

 勝家はどんな対応したかというと、利家をなんと許しました。(これも利家をかばうため残したものかもしれないですが)

◆北ノ庄城の戦い 柴田勝家vs羽柴秀吉 最終戦

 ここで終わる利家ではなく、利家はさらに、北ノ庄城に立て籠る勝家をやっつける先鋒も務めています。嘘でしょ?そこまで秀吉側に寝返る?って感じです。

 勝家がすごく頼りにしていた与力の利家ががっつり秀吉軍になっているから、旧柴田勢も心強かったでしょう。

 利家は賤ケ岳の戦い、北ノ庄城の戦いでも参陣しないのが筋ですが、勝家が一番してほしくないこと、秀吉が一番してほしいことをしています。

 ここで佐々成政の立場で考えると、成政はずっと勝家ラブですので、えげつない裏切りをした利家は許せないでしょう。

 それも秀吉側にえげつない形で寝返り、七尾城ももらったり、小丸山城を築城したりして出世してますし。

◆豊臣秀吉死後

 秀吉が亡くなって、徳川家康が勝手な大名同士の婚姻禁止でしたが、伊達家や蜂須賀家などと結婚話をすすめて、自分サイドの大名を増やしていこうとしています。そこで利家を除く3大老、5奉行は猛抗議をしますが、利家は病気で残りの命は短いと悟り、家康を許し、息子の(前田)利長を頼むとお願いする始末で、徳川サイドにつきました。

 利家が家康に「五大老・五奉行の合意を無視するなら討伐するぞ」と言っておけば、豊臣政権は継続し、徳川幕府はなかったと思います。

 なぜなら、石田三成vs徳川家康では三成が嫌いな加藤清正・福島正則は家康軍につきますが、豊臣政権(4大老・五奉行)vs徳川家康なら加藤清正・福島正則・小早川秀秋などは豊臣政権側につきますので、家康はそこまでの博打はしないように思います。

 前田利家は豊臣秀吉に大きな恩があると思いますが、ここでも裏切りました。

 加賀百万石(実際は120万石)といいますが、前田利家の裏切りの報償というのはさびしいですね。

 

【おまけ】

①利家は以前、信長の命令を破って、自分のものを盗んだ信長の部下を信長の前で殺してしまいます。

 信長は利家はやばいやつと思ったことでしょう。当然、すぐに追いださられ、無職となります。  

 その時、まつは子供産んだばかり。「えっ、マジ?ちょっと家族のことを考えろ!」といいたくなりますね。ここから前田一家は貧乏ぐらしになり、以前の友も去っていきました。

 利家はお金の大事さと人が苦しいときにはやさしくすることを身にしめて学習しました。

 このため利家は槍の名人ですが、そろばん名人でもあり、戦場でも兵糧などの計算をして、とてもケチで、まつの方もケチだとなじられたようです。

 どケチのエピソードとして1596年の慶長大地震後、前田家の京都屋敷が倒壊したので、利家は子の利政に新しい屋敷を建てさせました。しかし、それがあまりに豪華だったので、「金の使い過ぎだ」と怒ったというエピソードが残っています。

 当然、偉くなって賢くなった利家はただのどケチにとどまらず、金融業もはじめます。利家は、多くの領土を持ちながら、ケチだったので、大名は利家にお金の融通を頼みにきたそうです。貸すことで貸しができ、有利な立場となり、もし頼みごとがあるときには借金をなくすことも考えてたようで、そのことを子利長にも遺言しています。

 

②北ノ庄城の戦いで柴田勝家とお市の方はなくなりますが、浅井長政とお市の間で生まれた三女は秀吉によって助けられます。

 この戦いが秀吉政権がおおきなキッカケであり、豊臣家の終焉にもつながっています。

 なぜ終焉かというと助けた三女の一人が秀吉の側室淀の方です。他には3代将軍家光の生母ですから歴史をつくった女性たち。

秀吉はお市の方には嫌われてたようなので、当然、お市の方の娘を狙いますよね。織田家の血筋もありますし。

 特に勝頼を産んだ淀の方は政治に口出しして、大坂の陣でも誤った判断をして、豊臣秀頼とともになくなり、豊臣家を終わらせました。

 大坂城の天守閣にたまたま落ちた大砲の弾にびびらず、和睦せず、合戦をよく知った真田信繫(幸村)に合戦を任し、秀頼の出陣を許していたら、大坂の陣は長期化して(または家康の退却?)、その間に家康がなくなってたら、豊臣家は延命していたように思います。、

 またもしですが、秀吉が淀を助け、側室にしてなかったら秀頼は産まれず、豊臣秀次が跡継ぎとして(最近、評価をあげていています)、豊臣政権が継続し、徳川幕府はなかったと思います。

 また秀吉は多くの女性とともにして子供ができていないことから、淀の方は他の男性と関係を持ってたとも言われ、日本三大悪女のひとりとなっています。

 他のお二人は日野富子と今、大河ドラマで人気の北条政子です。

佐々成政(さっさなりまさ)について


 一方、佐々成政はいうと、おもしろい人生です。

 小牧・長久手の戦いの中、佐々成政は能登と加賀の前田利家の勢力の分断を図ろうと、その周辺の要地である末森城を攻めました。
 末森城は小高い山の上にあり、この城を奪えば金沢一帯を一望することができ、前田利家の動きを抑えることが出来るわけです。
 成政は利家の領土の中央突破と大胆ですね。
 1584年9月、末森城に攻撃をしかけると、またたく間に二の丸、三の丸を攻略し、落城寸前まで追い詰めます。
 そこですごいのは前田利家の正室まつ。まつはケチな性格で出費がいやで末森城に援軍に迷っている利家に対し、蓄財に励むのを皮肉って、戦費として金・銀を使うようにたしなめました。それに怒った利家はまつを切ろうとして、家臣がとめました。利家のケチで妻を殺しかけたエピソードが残っています。

 家臣の説得もあって、利家は30km離れた金沢城から、その日の夜には末森城近くまで駆けつけ、夜明けとともに佐々軍に奇襲をかけました。
 不意をつかれた佐々軍は総崩れとなり、退却を余儀なくされてしまいました(末森城の戦い)。グッジョブのまつの方でした。

 成政は勝ちがほぼ決まったので、利家を裏切り者と軽蔑してるので、さらに悔しかったでしょう。

 小牧・長久手の戦いの最中に秀吉と信雄との間で和議が成立して家康が停戦すると、家康が秀吉と戦う理由がなくなり撤退しました。

 佐々は大嫌いな秀吉と裏切り者の利家をやっつけたいため、1月上旬にの飛騨山脈(北アルプス)・立山山系を自ら越えて浜松へと踏破して家康に再挙を促しました。3月上旬でも大変と思いますが、成政の執念はすごすぎます。家康は大義を重んじるので、再挙するはずがないのですが・・・。アルプス越えまでしてきたのだから、説得できると思ったのでしょうか。

 これは「さらさら越え」といわれ、富山城⇒ザラ峠⇒信濃大町⇒浜松城のルートが考えれ、登山ファンでも気になる話題です。

 江戸時代でも錦絵となり、人気があったようです。あまりにもやることがすごすぎて創作感がわいてしまいます。

 なんとか浜松にたどり着きますが、家康の説得に失敗し、失意の中、再び越中へ帰国します。アルプス越えまでしてきて、さらに失意の中のアルプス越えなんで・・・・・。しかし、これで諦める成政ではありません。執念の成政、ガンバレ!

 今度は居城の富山城で秀吉と戦うことにしたのです。家康も諦めたのに、相当、秀吉と利家が嫌いなんですね。

 1585年、秀吉自ら、富山城を10万の兵で包囲し、成政は織田信雄の仲介により降伏しました(富山の役)。
 秀吉はずっと反抗しつづけた佐々成政を秀吉はなんと許し、大坂に移住させ、御伽衆として仕えさせました。これは秀吉の”人たらし”でしょうか。ここで秀吉を少し見直した!?利家は嫌いだけど。
 九州征伐で功をあげ、1587年、成政に羽柴の名字をあたえ、肥後の隈本城に入り、一国の大名になりました。かなりの能力があったので、秀吉は成政を許し、九州征伐などでつかいつづけたんですね。
 まだあります。一国の大名になりましたが、秀吉の命令に従わず(やっぱり秀吉嫌い?)、検地をしたことで肥後国人が一斉蜂起し(肥後国人一揆)、これを自力で鎮めることができず、責任をとわれます。
 成政は大坂に謝罪に行きますが、会ってももらえず、尼崎に幽閉されます。加藤清正を検使として、成政に切腹を命じました。
 切腹の時、短刀を横一文字に引いたあと、臓腑をつかみ出して天井に投げつけたといわれています。
 佐々成政という武将の人生は波乱に満ちていますね!

 

 まとめますと、「忠義を尽くす佐々成政と世渡り上手な前田利家」です。

 

加藤清正について
 佐々成政切腹の検使となった加藤清正は肥後北半国(佐々成政の半分)19万5,000石を与えられ、はじめての城持ち大名となりました。佐々成政の居城だった隈本城に入り、1591年頃よりこれに改修を加えて熊本城としました。 改名理由として、清正は城の改修工事の落成後、「隅本より熊本の方が勇ましいじゃないか」と言った説があります。
 もし佐々成政が失政してなかったら、熊本県という名前はなかったですね。

 また、清正は勇ましい熊と思っていましたが、今のくまモンはかわいいですねニコニコ

 

【おまけ】

 前田利家も金沢に居城をうつした際、尾山城にはいり、改修して、金沢城に改名したといわれています。

 

山城を起点に、歴史、武将について多岐にわたって説明しております。
よろしければコメント(ご感想)をいただけますとありがたく思います。
 
第2部
七尾城の写真と新ルート発見の紹介です。
今回は七尾城史資料館から大手道を通って本丸を目指します。
ここから帰路は新ルートを使い、計5時間もかかりましたびっくり
パンフレットの七尾城史資料館~大手道~本丸までの往復は2時間30分ですから2倍も長いとは・・・しっかり見ました。
七尾城はでかく、見ごたえがありますニコニコ
 
 
大手道の入り口付近です。

 

大手道から長坂へ。ここが最初の案内板

大手道でかなり長いですが、直線ルートはあまり多くなく、下の方でも防御性が高く、他の山城とレベルが違うところです。

 

こういった七曲りは防御性が高いです。

七曲りを過ぎたところがビューポイントです。本丸よりこちらの方が景色がいいかも!?

 

番所です。

番所から袴腰、安寧寺を経て、三の丸へ。ここが七尾城で一番広いです。
車で来られ、よく見る方は本丸~三の丸くらいと思います。
車での移動の方でも大手道から登城をおすすめします。

三の丸と二の丸はがっつり掘られています。

 

二の丸にあがるのにこの急登びっくり

 

七尾市は長谷川等伯が生まれたところです。

裸一貫、京都にでて、大派閥の狩野派(狩野永徳など)にイケズされても耐え忍んで、豪壮で華麗な桃山文化を生き抜いた絵師です。

最終的には豊臣秀吉の御用絵師まで上り詰めまた人物で、秀吉と同じで後ろ盾なしでがんばって評価された人です。

筆者の大好きな画家です。国宝「楓図」は京都の智積院でみれます。

 
 これまで上杉謙信、織田信長、さきほど狩野永徳がでてきまて次の屏風を紹介します。下図の洛中洛外図屏風 上杉本です。
 織田信長は武田信玄が怖くて、同じ一向衆に苦しむ上杉謙信と同盟を結び、信長が狩野永徳に描かせ、上杉謙信に贈った屏風です。この名品をみますと信長のゴマすりはかなりなものです。
 しかし、信長が加賀まで侵攻し、遠くにいる大名が近くの大名となり、信長包囲網のため石山本願寺が働きかけで越中一向衆と上杉謙信は和睦しました。
 これで、上杉謙信は信長と同盟するメリットがなくなり、勝手に同盟破棄をします。あれっ、謙信さん、義や正義の人ではなかったっけ?
 
 
いたるところに復元CGがあり、ワクワクしますラブ

 

温井屋敷跡からみた二の丸

遊佐屋敷跡からみた本丸

有名な本丸の石垣です。

 

 

 

本丸からみた七尾市街。七尾市は筆者が好きな画家「長谷川等伯」の出身地です。

 

本丸は広いです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 
帰路ルートは七尾城の7つの尾根があるので、別尾根から降りられないか、探索しました。
なんと新ルート発見びっくり
ぬかるみやすいところは丸太をおいているだけの簡素で、ルート整備中か、発掘のためのルートかなと思いました。地上に降りられるかはわかりませんニコニコ
登山に慣れている人でも整備されておらず安全ではないので、このルートを見つけられたとしても自己責任でご判断ください。

 
案内板があり、表にしてみると写真のように虎の尾道になるようです。あとで元通り、裏返ししてます。

 
他のところでも裏返った案内板がありました。あとで元通り、裏返ししてます。

このあたりは竹を切った程度の整備状況です。
これが公開されるのは、2,3年後でしょうか。

 

 

 

今回、パンフレットにないルートで降りられました。
 

 はぎーのランキング集の目次・おすすめの記事  

おすすめ記事ですので、是非、ご覧ください。
山城情報(おすすめ山城・旅行プラン・歴史など)       
ヒトの進化とサバイバルの歴史  

本当にブータンは幸せの国なのか?

黒人奴隷貿易が現代に残した意外なこと  

癒されたい貴方へ~クラシック音楽~  

 

下をクリックで読者になって下さい<m(__)m>

ブログを書く励みになりますニコニコ

読者登録してね

最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

◎山城
スポンサーリンク
シェアする
”道を、極める”のはぎーをフォローする
道を、極める

コメント

  1. にっさん より:

    SECRET: 0
    PASS:
    こんにちは!最近歴史に興味を持ち始めたヘッポコ歴史ファンですが解りやすい解説で大変勉強になります。
    私は登山もやりますが厳冬期の立山を越えるのは山小屋が充実している現代で熟練者でも至難の業ではないでしょうか?埋蔵金のありかも気にきになりますねぇ(^^)

  2. にっさん より:

    SECRET: 0
    PASS:
    こんにちは!最近歴史に興味を持ち始めたヘッポコ歴史ファンですが解りやすい解説で大変勉強になります。
    私は登山もやりますが厳冬期の立山を越えるのは山小屋が充実している現代で熟練者でも至難の業ではないでしょうか?埋蔵金のありかも気にきになりますねぇ(^^)

  3. SECRET: 0
    PASS:
    >にっさんさん
    コメントありがとうございます。
    歴史に”もしも”は禁句とか言われていますが、歴史に興味をもっていただけるように心がけていますので、うれしく思います。
    山城は登山と違い、ルート整備がされていない場合が多いです。
    特に新ルートでは整備されていないので、荒れた自然の道を安全に歩け、ルートがわからなくなっても焦らず、対応できるかどうかなどのトレッキングスキルが必要のように思います。
    また、下山しても獣柵や川のせいで元にもどる覚悟でいくことも必要と思います。

  4. SECRET: 0
    PASS:
    >にっさんさん
    コメントありがとうございます。
    歴史に”もしも”は禁句とか言われていますが、歴史に興味をもっていただけるように心がけていますので、うれしく思います。
    山城は登山と違い、ルート整備がされていない場合が多いです。
    特に新ルートでは整備されていないので、荒れた自然の道を安全に歩け、ルートがわからなくなっても焦らず、対応できるかどうかなどのトレッキングスキルが必要のように思います。
    また、下山しても獣柵や川のせいで元にもどる覚悟でいくことも必要と思います。

  5. schocomint より:

    SECRET: 0
    PASS:
    七尾城をめぐる戦い、戦国武将の詳しい説明を記して頂きとても良くわかりました。
    内容も楽しく、所々笑ってしまいました。
    くまモンはかわいいです。一緒に踊ると楽しいです。
    看板の記述に長谷川等伯画伯の名が出てきた時は、そうそう七尾出身だったと思い出しました。日本画大好きです。
    七尾城の石垣、綺麗ですね。
    魅力的な山城です。

  6. schocomint より:

    SECRET: 0
    PASS:
    七尾城をめぐる戦い、戦国武将の詳しい説明を記して頂きとても良くわかりました。
    内容も楽しく、所々笑ってしまいました。
    くまモンはかわいいです。一緒に踊ると楽しいです。
    看板の記述に長谷川等伯画伯の名が出てきた時は、そうそう七尾出身だったと思い出しました。日本画大好きです。
    七尾城の石垣、綺麗ですね。
    魅力的な山城です。

  7. SECRET: 0
    PASS:
    >schocomintさん
    いつもコメントありがとうございます。ブログを書くモチベーションアップになっております。内容もブログ改善に参考になっています。
    ご意見を参考に、今回、武将の気持ちを多く記載したり、こぼれ話などいれて更新しました。
    再度になりますが、よろしけば再度、読んでみてください。
    七尾城の石垣は素晴らしいです。他にも同じように石垣がきれいな山城があり、七尾城の本当のすごさはお城の下の方の防備だと思いました。でも車で行かれている方が多いのでそこを見られていません。残念なことです。
    くもモンと一緒に踊れるんですね。楽しそうです♪

  8. SECRET: 0
    PASS:
    >schocomintさん
    いつもコメントありがとうございます。ブログを書くモチベーションアップになっております。内容もブログ改善に参考になっています。
    ご意見を参考に、今回、武将の気持ちを多く記載したり、こぼれ話などいれて更新しました。
    再度になりますが、よろしけば再度、読んでみてください。
    七尾城の石垣は素晴らしいです。他にも同じように石垣がきれいな山城があり、七尾城の本当のすごさはお城の下の方の防備だと思いました。でも車で行かれている方が多いのでそこを見られていません。残念なことです。
    くもモンと一緒に踊れるんですね。楽しそうです♪

  9. schocomint より:

    SECRET: 0
    PASS:
    更新ありがとうございます。
    とても楽しく読ませて頂きました。
    私は公共交通機関派なので、お城の下から登ってみます。お加減さまで予習もバッチリです♪

  10. schocomint より:

    SECRET: 0
    PASS:
    更新ありがとうございます。
    とても楽しく読ませて頂きました。
    私は公共交通機関派なので、お城の下から登ってみます。お加減さまで予習もバッチリです♪

  11. SECRET: 0
    PASS:
    >schocomintさん
    再読され、ご連絡ありがとうございます。
    私も交通機関派です。下から登られると七尾城のすごさがよくわかると思います。
    予習をしておくと、より山城を楽しめますね!

  12. SECRET: 0
    PASS:
    >schocomintさん
    再読され、ご連絡ありがとうございます。
    私も交通機関派です。下から登られると七尾城のすごさがよくわかると思います。
    予習をしておくと、より山城を楽しめますね!