6世紀頃
ボン教(チベットの土着宗教)がはブータンに伝わる。
チベット王ソンツェン・ガンポがパロのキチュ・ラカンやブムタンのジャンパ・ラカンを建立。
チベットやブータンなどに荒々しい魔女(下写真)が覆いかぶさっているため、魔女の108のツボに108のお寺を建てた。そのうちの2つのお寺がブータンの地にあります。
8世紀
グル・リンポチェ※は、抗争で窮地にあったブムタンの王シンドゥ・ラ ジャを救うためにブータンの地へ。
ブムタン・ジャカルのクジェ・ラカンやパロのタクツァンに訪れる。
※パドマサンバヴァとも呼ばれ、現在のブータンでは守護神または第二の仏として崇拝される。
9世紀
チベット王ランダルマにより追放された僧侶ラセー・ツァンマ王子が東ブータンに移住。他の多くの仏教僧がチベットからブータンに移住。
※ランダルマ王はボン教を信じて仏教を禁じたため、多くの仏教僧侶はチベットを離れる。
チベットでの宗教上の抗争により、ドゥク派※の多くの仏教僧がチベットから西ブータンに移住。
そのうちの最重要な僧の一人であるカギュ派のラ派のゲルワ・ラナンパは12世紀にティンプーの北の山中にタンゴ・ゴンパを建てる。
※ドゥク派:カギュ派の支派でツァンパ・ギャレー(1161-1211年)が開いた。
またブータンの国名をドゥク・ユー(ユル)すなわち雷龍の国、ドゥク派の国と呼ぶことがあり、今のブータンの基礎が築かれ始める。
13~16世紀
ドゥク派の仏教が栄え、ブータンの独自性を持った宗教に変化しはじめる。
パジョ・ドゥゴム・シクポによって西ブータンにドゥク派が導入され、修行小屋程度だったタンゴ・ゴンパ(ゲルワ・ラナンパが12世紀に建立)
ドゥクパ・チェンバとその2人の子 であるンガワン・テンペ・ゲルツェンとチュン・リンポチェ・ンガキ・ワンチュクによりブータン内に20以上のお寺が建立される。
今でも偉大な聖人として崇められるドゥク派のラマ(師)ドゥクパ・キンレイ※(1455-1529年)が、タンゴ・ゴンパを建て直す。
※ドゥクパ・キンレイ:通称「聖なる狂人」、「風狂の聖」として今もブータンで愛されている。彼は過去、大悪人だったが、過去の行いを反省すべくチベット、ブータンを全裸で放浪し、ブータン各地の悪魔を自らの“燃えさかる稲妻”(男根)で退治した。さらに娘たちとの交わり、娘たちを悟りに導いた。そのため、多くの妊婦があったという。
魔よけと豊饒多産の願いのため、ドゥクパ・キンレイのペニスは、「像にして家にぶら下げたり」、「棒(下写真1)にして女性の頭をなでたり」、家の壁に描いたり(下写真2)します。
ペマ・リンパ※はグル・リンポチェが記し、隠した経典(テルマ)を見つけ、グル・リンポチェの化身とみなされた。また、踊りや芸術品を創作し、今のブータンに文化に大きく影響を与える。
※ペマ・リンパは1450年、ブータンに生まれ、ニンマ派のテルトン(グル・リンポチェの埋蔵経典を見つけた人)の5人の最も重要な一人。
彼は生涯で34個のブータンの仏像、巻物や宗教上の大切な遺品を見つけて保存したという偉業があります。その遺品は彼が東ブータンにあるブムタンに建てたタムシンやクンザンダなどの寺院に保存されました。
ペマ・リンパの弟や子孫などが東ブータンにいくつものニンマ派のお寺を建立し、東ブータンではニンマ派が圧倒的な勢力となる。
■ブータン国家統一
1616年
ドゥク派の後継者抗争で不利な状況に追い込まれたンガワン・ナムゲル※(1594-1651)がチベットからブータンに移住。
ティンプーのパンリ・ザンパ寺院に逗留しながら、西ブータンを回って仏教の布教を行い、徐々にブータンの宗教上の指導者の地位を確立していく。
※ンガワン・ナムゲル:シャブドゥン・リンポチェ(その足元に人が平伏す高貴な姿、信仰の最高の力などの意味)と
名乗り、今では彼をシャブドゥンと呼ぶ人が多いです。
1617年,1634年,1639年 3回
チベット・ツァンパ政権が侵攻。
チベット・ダライラマ政権(1642年成立)による侵攻。
ガワン・ナムゲル入寂(1705年に彼の死を公表)。
東部地方はペマ・リンパからのニンマ派の信仰があり、東部地方だけドゥク派がなかなか浸透しなかった。
チベット・ダライラマ政権がブータンを攻撃
イギリス=ブータン戦争(ドゥアール戦争)勃発。
1865年
ドゥアール戦争に敗北し、イギリスとの間にシンチュラ条約を締結。
イギリスは領土占領と引き換えにブータンに年5万ルピーを補償金として支払うかわりに、ブータンはアッサム、ベンガル、ドゥアールの7.122平方キロメートルにおよぶ領土を喪失。
ジクメ(ジグミ)・ナムゲルはデシに任命される。
ウゲン・ワンチュク(ジクメジグミ・ナムゲルの息子)はトンサ・ペンロップとなった。
アッサム大地震(推定マグニチュード8.7)が起こり、ブータン国内で多くのゾンなどで大被害。
1907年12月17日
ウゲン・ワンチュクが初代世襲制国王に選出される。ブータン王国となる。
プナカ条約締結(1865年シンチュラ条約の改訂版)。1949年まで外交を全面的にイギリスに委ね、イギリスの保護下に入る。
ジグミ・ワンチュクが第2代国王になる。
インド・ブータン条約調印(1910年プナカ条約の改訂版)。
ジグミ・ドルジ・ワンチュクが第3代国王になる。
国際連合に加盟する。128番目の加盟国として国連への参加を認められた。
1972年
3代国王がナイロビで客死し(44歳)、ジグミ・シンゲ・ワンチュクが16歳で第4代国王になる。
国民総幸福量(GNH:Gross National Happiness)を提唱。
パロ空港が開港し、国営航空のドゥク・エアが営業開始
反政府運動激化。南部居住のネパール系住民が国外に脱出し難民化。
国内テレビ放送開始。インターネットの利用を許可。
ワンチュク国王、2008年の譲位と総選挙後の立憲君主制移行を表明。
当初の予定を繰り上げて、ジグミ・ケサル・ナムゲル・ワンチュクが第5代国王に即位。
初の普通国政選挙となる国家評議会(上院)選挙を実施(25名)。
普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施(47名)。2つの政党でブータン調和党(DPT)の勝利。
新憲法を公布。
普通選挙による国民議会(下院)選挙を実施。国民民主党(PDP)はブータン調和党(DPT)から政権を奪取。
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