織田信長の革新その3 日本経済の革新

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今回は織田信長の革新性の第三弾です。

 

織田信長の強さはなんだったんでしょうか?

 

また信長のイノベーションと今の日本に与えた影響はどんなことでしょうか?

 

それは、強大な武力ではなく、圧倒的な経済力で、徹底的な情報収集と抜群の経済センスで数々のイノベーションを巻き起こし、ライバルを圧倒しました。

 

信長は革新的な偉業で現代日本に大きな影響を与え、現代ビジネスに通じる経済戦略があるため、今回、次の観点で紹介させていただきます。

1.経営の革新
 1-1 革新的リーダーシップ
  1-1-1 トランスフォーメショナル・リーダーシップ
  1-1-2 トランザクティブ・リーダーシップ
 1-2 経営戦略
 1-3 ダイバーシティ経営
 1-4 港と物流と城を重要視 
 1-5 経営における情報の最重要化
 1-6 政教分離と商業教分離

 1-7 見せる経営
  1-7-1 安土城   
  1-7-2 信玄塚

  1-7-3 軍旗(永楽通宝銭)

 

2.合戦の革新
 2-1 兵農分離
 2-2 スペシャリスト鉄砲隊
 2-3 合戦を戦術から戦略へ
  2-3-1 合戦を経済力戦へ 
  2-3-2 合戦を情報戦へ  
  2-3-3 合戦を物流戦へ

 

3.日本経済の革新
 3-1 金融改革
 3-2 価値の創造
 3-3 テクノポリス構想
 3-4 寺の既得権益剥奪に経済活性化

 

今回の記事では上記3の「日本経済の革新」について説明させていただきます。

3.日本経済の革新
3-1 金融改革

1569年に織田信長が京都を中心に畿内で施行した通貨法令の骨子は次のとおりです。
①多種類が混在していた銭貨を基準銭と減価銭に区分して比価を明確に規定する
②金銀を通貨として用い高額商品の取引に利用する
③米の通貨としての利用を禁止する

 

法令①は信長自身が保有していた銭の価値を担保し、蓄積していた銭の流通をはかろうとしました。

商取引の現場では悪質な私鋳銭や粗悪な渡来銭が嫌われ、円滑な経済活動が阻害されたため、通貨法令によって取引現場から排除されていた多くの銭貨を呼び戻し商取引の安定をはかりました。

無文銭(低品質銭)の通用を明確に認めたのは日本史上で信長の法令だけで、日本の通貨システムの発展に大きく貢献しました。

 

法令②では15世紀までの金属通貨は銭貨(主に青銅銭)だけでしたが、金、銀の通貨価値は金1両=銀7.5両=銭1.5貫と定め、生糸、薬、茶わんなどの輸入品など高額商品に金銀を使用することを定めました。

 

これにより金銀の流通が盛んになり、巨額の軍事費(戦争に必要な大量の鉄砲や火薬、鉄鋼船の大砲などの新兵器、軍事物資など)を金銀により調達を容易化させました。

このような金銀銅の貨幣は江戸時代にも踏襲されました。

そしてこの貨幣制度は世界の貨幣制度に近いものがあったため、明治維新後の日本はスムーズに欧米の資本主義になじみやすいものでした。
 

信長がつくった貨幣制度は、今の経済大国日本とも通じていると思います。

 

法令③の米の利用禁止は京都などで人口急増で米が不足しており、米を確保するため、米の通貨としての利用を禁止しました。

米を通貨となると、戦争や飢饉(ききん)が起きれば米の流通が少なくなり、価値も安定化しません。

また、高価な武器、茶器を購入する際も大量の米が必要となるため、不都合が生じます。

 

3-2 貨幣の創造
現代での金融価値の創造といえば、紙幣やビットコインなどです。
本来の紙や電子データでは価値はありませんが、使用者間で信頼があることで、商品交換が可能になります。

では信長の価値創造とはなんでしょうか?

 

信長は堺の豪商、各地の大名から茶器をめしあげ、それを政治の道具として活用しました。

 

信長によって、茶器の価値を多くの武将に植え付け、茶道具を城や土地に匹敵する褒美として活用しました。

 

城や土地の褒美は多くの人々の大きな影響をあたえ、数にも限りがありますが、茶器は新たにつくれるもので、手間もかからず、非常に便利な褒美でした。

 

滝川一益は甲州征伐の褒美で「珠光小茄子の茶器」を望みましたが、その代わりが上野一国など50万石で愚痴ったと伝えられています。 

ちなみになぜそれほど茶器にこだわったのでしょうか。
それは、信長より茶道具を下賜されるのは、茶会(茶の湯)の開催の承認を意味し、併せて同家重臣として不動の地位を獲得した事実を、内外に喧伝できたからです。
信長は茶会を政治上の儀式の一環として茶会を通じて次の意味をもたせました。
①自身と家臣との君臣関係の確認
②政治問題に関する意見交換(秘密会談)

信長は「国より茶器の方がいい」という価値観までも変えた、とてつもないイノベーターでした。

 

3-3 テクノポリス構想
信長は城を重視し、いろいろな城と城下町を開発し、経済を活性化させました。
那古野城→清洲城→小牧山城→岐阜城→安土城

当時大名では本拠地の移転という発想はまったくなく、信長は楽市楽座と城と城下町を増やし、日本初の不動産デベロッパーといえます。
さらに関税の撤廃、道路などの物流革命でロジスティックス経営も加え、日本の各地にテクノポリスをつくっていく構想があり、日本経済の革新を行いました。

 

3-4 寺の既得権益剥奪に経済活性化
信長の悪事といえば”比叡山の焼き討ち”といわれる方もいます。
しかし、戦国時代の比叡山というのは、日本有数の大財閥で、土倉(金貸し業)で日本金融業者の元締め的な存在でした。
さらに利息が高く、比叡山や本願寺一向宗などは悪徳金融業者で社会悪となっていました。
他にも、京都などの主要都市の市や座を取り仕切り、主要港も管轄において関税を徴収したりしていました。
極端な言い方かも
しれませんが、比叡山、一向宗は日本有数のやぐざであり、それも宗教団体ということで、朝廷や大名は悩まされていました。
 
当時の比叡山延暦寺、本願寺などの悪徳集団を一掃することで、信長は国力や民力の向上を図り、日本経済の革新を行いました。

 

 

今回、信長の日本経済におけるイノベーションを紹介させていただきましたが、皆様、いかがだったでしょうか?

 

●参考図書

今回の一部ですが、詳細に書かれている本は次です。

 

次回は「信長のイノベーションの総括」をさせていただきます。

 

よろしければ次もみてくださいm(_ _ )m

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