「ラオスにいったい何があるというんですか? 」はぎー版

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 村上春樹氏「ラオスにいったい何があるというんですか? 」でラオスがすこし有名になりましたが、はぎーのブログでは、ちょっと違った点で、ラオス戦争・ベトナム戦争からの「ラオスの負の遺産」について説明したいと思います。
 
 以前、アウシュヴィッツや黒人奴隷貿易でも書きましたが、「負の遺産」は今、生きている私たちが知っておくべきことと思いますので、是非、ラオスに何があったかを知っていただきたいと思っています。

 

 

 まずは、歴史からですが、理解していただきやすいように要点のみとします。

●1945年3月 日本がフランス領インドシナ(ベトナム・ラオス・カンボジア)からフランスを追い出し、3国に独立を促す。

 

●1945年4月8日 フランスからのラオスが独立宣言
 
●1945年8月15日 日本が連合軍に降伏
 
●1945年10月12日 ラーオ・イサラ(自由ラオス)政府樹立
 次の3名は兄弟で、新政府の中心人物であり、ラオス歴史でもっと影響を与えたといえるくらい重要な人物ですので、よく理解されると今後の話がわかりやすくなるかと思います。

①ペッサラート
 ルアンパバーン王国の副王の家系の王族で、日本占領下のルアンパバーン王国首相、ラーオ・イサラ新政府大統領、ラオス王国の副王を務めた。ラオスにおいて国民の父と讃えられている。
 
②スワンナ・プーマ(スワンナプーマー)

・ペッサラートの弟、フランス留学帰国後、ラオス公共事業局に勤務、新政府ではペッサラートの補佐役。
・ラオス独立の考え:軍事力でフランスへの対抗は無謀であり、国際世論を味方につけ交渉によってフランスに独立承認を得る
 
③スパーヌウォン
・①②の異母弟、フランス留学後、ベトナムでベトナム土木技師で勤務し、ベトナム人と結婚。
・妻を通じ、ベトナムのインドシナ共産党と接触し、ホーチミンからベトミンと中国共産党の支援を取りつけ、強力な軍事的基盤をバックに新政府に通信大臣として参加。
・のち、外務大臣、軍総司令官を歴任し、ベトミンの支援体制のもと共産主義へ推進し、「赤の殿下」となる。
・ラオスの独立の考え:軍事基盤を確立しなければ完全独立をありえない。それにはベトミンの支援は必要。
 
●1946年2月 フランス軍が本格的に再植民地化を開始

 

●1946年3月 スパーヌウォン(上記①②は参戦せず)は、ベトミンの勢力が強いターケーク(タケーク/タケク)でフランス軍に抵抗したが、銃弾を胸に受け負傷し、瀕死の状態でタイに亡命。
 スパーヌウォンは胸からあふれでる血を見ながら、「国のためなら死ねる」という思ったという逸話が残っています。
 
●1946年4月 フランス軍がビエンチャンを占領

 

●1946年5月 フランス軍が首都ルアンパバーンを占領し、ラオ・イサラ政府はバンコクへ亡命。(タイのプリディ政権はインドシナの反仏勢力に同情的だったため。)
 
●1949年7月 フランス連合内でラオス王国が成立。外交権と防衛権は付与されず、この過程でスパーヌウォンら左派と(スパーヌウォンの異母兄)ら右派の路線の違いが明確となり、ラーオ・イサラは分裂しました。

 

 このラーオ・イサラの分裂から主要3人はつぎのような行動をとり、ラオスは世界の戦争に巻き込まれていきます。

①ペッサラート
 中立として、バンコクにとどまり、一生、ラオス中立化の信念をもちつづけ、1957年3月に帰国し、翌月、副王となる。1959年死去。

 

②スワンナ・プーマ
・ラオスに帰国し、1951年ラオス王国新政府の首相となり、ペッサラートのラオス中立化を政治目標にフランス政府と交渉をつづけ、1953年10月にフランスから完全独立を達成。
・以後、インドシナ戦争(第一次)、東西冷戦によるベトナム戦争、朝鮮戦争を距離を置くため、「左派(スパーヌウォン)との和解」と「兄ペッサラートが理想としたラオス中立化」に一生をささげる。
・1975年12月、パテート・ラオ(スパームウォンが率いる共産党勢力)がラオス人民民主共和国を樹立されたことによって、中立派のプーマ殿下は政界から引退し、1984年に死去。

 

③スパーヌウォン
・1950年8月にネーオ・ラーオ・イサラ(ラオス自由戦線)を結成し、同中央委員会議長に選出され、抗戦政府の首相(左派の顔、「赤の殿下」となる)に就任し、引き続き反仏闘争の指導にあたる。

・1953年にラオス内戦開始。1975年までつづき、左派パテート・ラーオ(北ベトナム、ソビエト・中国など)とラオス王国政府(南ベトナム・アメリカ・フランスなど)による内戦。左翼と右翼による政治闘争を越え、冷戦中の大国からの支援を受けた代理戦争に発展しました。
・1954年ジュネーブ会議(第一次インドシナ戦争の休戦協定)で、ベトナムは南北に分断され、スパーヌウォン・ソビエト・中国などによって、ラオス王国とは別にポンサリーとサムヌアの2県が、パテート・ラオ(スパームウォンが率いる共産党勢力)の再集結地として認められた。
・そのため、パテート・ラオ(共産勢力)とラオス王国(中立派)との対立でラオス内戦は継続しました。
・さらにベトナムの南北の分断により、ベトナム戦争(第二次インドシナ戦争)に発展し、パテート・ラオがベトミンと協力関係やラオスが北ベトナムから南ベトナムへの支援ルート(有名なホーチミン・ルート)の9割も占めていたため、ラオスはアメリカの標的となりました。
・1964年~1973年の爆撃停止まで、アメリカ空軍は約209万トンの爆弾(300万トン以上の説もあり)を投下されたといわれ、これは史上最大の空爆であり、第二次世界大戦でアメリカが欧州と太平洋戦争の両方で
投下した爆弾の量に匹敵します。
・そのため、ラオスは「世界で最も爆撃を受けた国」となり、クラスター爆弾、ナパーム弾、対人地雷などおびただしい種類の爆弾があり、その多くはクラスター爆弾で、まだその約3割が不発弾(UXO)として残り、今なおラオス国土(日本の本州とほぼ同じ面積)の3割以上が危険区域となっています。
・さらに、クラスター爆弾は子供にはおもちゃのように思えるため、不発弾による子供の死傷者が多いのも悲しいことです。
・このアメリカの空爆は秘密戦争だったため、ベトナムのように世界的に知られていませんでしたが、2016年9月6日にオバマ大統領がラオスに訪問し、「史上最も空爆された国」とラオスを呼び、「この国との歴史を思えば、米国はラオスの回復を助ける道義的責任があると思う」と演説しました。
ご参考:
CNNニュース http://www.cnn.co.jp/world/35088601.html
BBCニュース http://www.bbc.com/japanese/37293875

 

  このような歴史を知ると、スワンナ・プーマが兄ペッサラートの中立化に賛同したように、スパーヌウォンはパテート・ラオを解体し、スワンナ・プーマと兄弟協力して、ラオスの中立国家をつくっていたら、今の負の遺産、ラオス内戦、ベトナム戦争の激化は防げたように思いました。
 

 以上、スパーヌウォン、共産勢力パテート・ラオの拡大、ベトナム戦争による不発弾(負の遺産)、社会主義国家への歴史についてご理解をいただけたでしょうか。
 

 

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 http://ameblo.jp/la-luna-sarah/entry-12219102300.html

 

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