織田信長の革新その2 合戦の革新

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今回は織田信長の革新性の第二弾です。

 

織田信長の強さはなんだったんでしょうか?

 

また信長のイノベーションと今の日本に与えた影響はどんなことでしょうか?

 

それは、強大な武力ではなく、圧倒的な経済力で、徹底的な情報収集と抜群の経済センスで数々のイノベーションを巻き起こし、ライバルを圧倒しました。

政治・文化・軍事などであらゆる常識を覆しつづけ、その集大成が”長篠の戦い”

 

それはイノベーションがもたらした経済戦争(マネー戦争)でした。

 

信長は革新的な偉業で現代日本に大きな影響を与え、現代ビジネスに通じる経済戦略があるため、今回、次の観点で紹介させていただきます。

1.経営の革新
1-1 革新的リーダーシップ
1-1-1 トランスフォーメショナル・リーダーシップ
1-1-2 トランザクティブ・リーダーシップ
1-2 経営戦略
1-3 ダイバーシティ経営
1-4 港と物流と城を重要視
1-5 経営における情報の最重要化
1-6 政教分離と商業教分離

1-7 見せる経営
1-7-1 安土城
1-7-2 信玄塚

1-7-3 軍旗(永楽通宝銭)

 

2.合戦の革新
2-1 兵農分離
2-2 スペシャリスト鉄砲隊
2-3 合戦を戦術から戦略へ
2-3-1 合戦を経済力戦へ
2-3-2 合戦を情報戦へ
2-3-3 合戦を物流戦へ

 

3.日本経済の革新
3-1 金融改革
3-2 価値の創造
3-3 テクノポリス構想
3-4 寺の既得権益剥奪に経済活性化

 

今回の記事では上記2の「合戦の革新」について説明させていただきます。

2.合戦の革新
2-1 兵農分離
信長以前までは兵と農の身分がなく、武士達の多くは、村落にすみ自身も農作業に従事して戦が起こると出陣をしていました。
そのために、農繁期になると兵をいったん引かなければなりませんでした。

そこで信長は、時期を問わずいつでもどこでも長期的に訓練・合戦をできる常備兵部隊(傭兵部隊)を作りました。

こうして前例のない軍事改革を行う事によって戦国一の組織的で戦術的なスペシャリスト軍隊が完成しました。

 

兵農分離は信長に始まり、豊臣秀吉が「刀狩令」や「太閤検地」で全国的に展開し、徳川家康で「身分制度(士農工商)」で完全明確化し、完成させました。

 

信長と秀吉があってこと、江戸時代が長期化できたことが多くあると思います。

 

2-2 スペシャリスト鉄砲隊
兵農分離により、いつでも傭兵部隊を訓練できるようになったたため、鉄砲(火縄銃)などの新兵器のスペシャリストの部隊を作れました。
この訓練で、各人の個人スキル・戦略戦術知識が格段にあがり、高度な戦略・戦術の実行が可能になりました。

 

戦国大名は普通、鉄砲兵を弓隊に交えて組み込んで緒戦で使用し、混戦になると鉄砲隊を引かせるというのが常でした。

 

しかし信長は「火縄銃」の装填に時間がかかる限界を克服するため、火縄銃の斉射戦術(射手に隊列を組ませ列ごとに交互に斉射する方法)で世界で初めて採用しました。

 

その火縄銃の斉射戦術が1575年の長篠の戦いで用いたことは有名ですね。

(最近疑問視されとています)

 

西洋初の斉射戦術は1594年、オランダ独立戦争の時、連合軍の司令官マウリッツだったといわれ、信長が世界初だったことは驚きですね。

また信長は集団使用の際の大音声に着眼し、鉄砲隊を効果的な攻撃だけでなく恫喝の役割にも活用しました。

信長の発想と経済力があることで信長は世界初の戦闘力の高い鉄砲隊をつくれ、日本が世界の最先端を走っていたことがわかります。

 

2-3 合戦を戦術から戦略へ
マイケル・E・ポーターは多くの国・企業の戦略アドバイザーで「競争戦略論」の本で競争戦略手法を提唱したことで有名です。
彼は「日本企業はいい技術・いい人材・現場力をもってるけど、日本企業には戦略がない」と言っています。
中国やインドの新興市場で求められているものは完璧な技術や高品質ではなく、イメージが重要です。
お金のかけるところは技術ではなく広告、有力の代理店をおさえるなどセールス戦略は重要です。
このように経営や合戦では戦術ではなく、戦略が重要です。

戦国時代では戦術では武田信玄・上杉謙信がトップで、戦略では信長が圧倒的に勝ってました。
戦略というのは、信長の場合、経済力の強化、傭兵隊の雇用、物流戦、情報戦などです。

 

 

 

 

2-3-1 合戦を経済力戦争へ
兵農分離や鉄砲隊は考えついただけでは実行できません。
そこにはお金が必要となります。
信長は堺、不動産開発などで増収を行い、経済力によって、傭兵の雇用、高価な鉄砲・弾薬の購入が可能となり、長篠の戦いでは鉄砲隊に世界でも稀である3000丁を持たせられたといわれています(異説はあり)。

経済力があるため、鉄砲・硝石の大量購入だけでなく、兵糧や傭兵の長期雇用が可能となり、長期戦にも対応できるようになりました。

また、武力よりも経済力を重視し、豊富なマネー、軍旗を永楽通宝銭にすることで志願兵を増やすことができました。

もし兵農分離がなければ、10年と長期にわたった石本本願寺に勝てず、江戸時代にも宗教勢力が存続していたことも考えられます。

信長は日本で最初に本格的なマネー戦争に持ち込んだ人だと思います。

2-3-2 合戦を情報戦へ 
信長の情報戦略では次があります。
桶狭間の戦い・・・義元のみターゲットを絞り、義元の居場所に注力した情報戦略
第一次朝倉征討・・・金ヶ森での凶報の情報伝達の早さ、正確さ
長篠の戦い・・・合戦地に近づくと進軍を遅くし、織田軍は武田軍を恐れていると思わせる情報戦略

信長は下からの情報伝達を重要視したため、伝達将校(伝令や敵方への使者、偵察や戦功の監察など)として黒母衣衆黒母衣衆と赤母衣衆というエリート中のエリート集団(それぞれ約10名)が置きました。

黒母衣衆・・・佐々成政、毛利良勝、河尻秀隆、生駒勝介、水野帯刀左衛門、津田盛月、蜂屋頼隆、中川重政、中嶋主水正、松岡九郎次郎

赤母衣衆・・・前田利家、織田越前守、飯尾尚清、福富秀勝、塙直政、黒田次右衛門尉、毛利秀頼、野々村正成、猪子一時

母衣(ほろ)とは矢や石を避けるために身に着けた、甲冑の補助的な役割を果たす武具の一種で背中に背負う袋状の物をいいます。
黒色と赤色に着色させた母衣を着用させて、母衣衆の両者を互いに競わせました。

前田利家のお膝元金沢では、今でも「金沢百万石まつり」には赤母衣衆が参加しています。

2-3-3 合戦を物流戦へ
信長は堺や物流をコントロールすることで、他国への軍事物資の流通をシャットアウトしました。
特に弾薬である硝石は堺でしか手に入らなかった貴重品で、戦国最高戦術をもつ最強の武田軍は弾薬不足により武田軍は弱体化しました。

 

今はロジスティクスは経営で重要になっていますが、信長が日本初で物流を重視した経営・戦争をしたといえると思います。

 

武田家に縁組や贈り物で媚びへつらっていた信長でしたが、以上の戦略の総決算が「長篠の戦い」で、信長は武田軍に経済力と戦略で完全に圧倒したのでした。

武田軍VS織田軍
武力VS経済力
戦術VS戦略

 

以上、私は信長の合戦での偉業はマネー戦・物流戦化だったと考えています。

 

今回、信長の合戦におけるイノベーションを紹介させていただきましたが、皆様、いかがだったでしょうか?

 

●参考図書

今回の一部ですが、詳細に書かれている本は次です。

 

次回は「日本経済の革新」について紹介させていただきます。

 

よろしければ次もみてくださいm(_ _ )m

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