今回、日本唯一の湖上有人島”沖島”にある沖島尾山城、沖島坊谷城(沖島坊谷砦)に行ってきました。
これらの山城は有名な近江の山城の本にも掲載されておらず、インターネットで情報が少なかったため、特別に紹介します。
(山城関連は過去ランキングのみで山城の個別紹介は初めてです)
■歴史
詳細はは不明です。
”室町時代に将軍 足利義政により湖上監視が命じられ、湯谷ヶ谷(番所山)に施設が設けられた”との記録があります。この地は沖島坊谷城と湖岸の中腹にあります。
保元・平治の乱(1156-1159)において清和源氏の落武者7人が山裾を切り、居住したことに始まると言われ、彼ら(南源吾秀元、小川光成、西居清観入道、北兵部、久田源之丞、中村磐徳、茶谷重右衛門)が現在の島民の祖先とされています。
畑仕事をされてた島民にいろいろなお話を聞くことができました。
島民は今250名くらいで、上記の7つの名字の人は島民の半分くらいもいるようです。
これから島の山城は源氏落武者で築城され、琵琶湖の警備を行い、島全体が要塞化をしていったと思われます。
織田信長も近江平定の際、琵琶湖の関所として認めたようです。
信長が亡き後、豊臣秀次は紀州攻め、四国征伐での論功行賞で近江八幡43万石を与えられると安土城の隣地に八幡山城を築き、安土城の建物や城下町(楽市)を移築することにしました。そのため近江八幡は非常に栄え、近江商人をうみ土台ができました。
さらに豊臣秀吉は八幡山城を安土城に替わる近江国の国城とし、八幡山城の豊臣秀次の宿老に田中吉政を配し、周辺には水口岡山城に中村一氏、長浜城に山内一豊、佐和山城に堀尾吉晴、竹ヶ鼻城に一柳直末を配して、近江国を軍事的、経済的要衝としました。
この沖島の山城は琵琶湖を挟んですぐ近くに八幡山城があり(私は沖島のあと定期船で堀切港に入り、歩いて北ノ庄城経由八幡山城まで徒歩で行けましたので非常に近いです)、琵琶湖の防備として上記の山城と同様に重要な位置づけにあったと思います。
■登山ルート
3か所あります。他のサイトでは杉谷浜あたりから厳島神社(善財天)あたりを経由してあがるルートがあるようですが、2022年1月時点ではそのルートは閉鎖されているようです。
(島民の話では自然災害で道がとおれなくなって閉鎖したとか)
おすすめは沖島コミュニティセンターの裏側からお花見広場~ホオジロ広場~見晴らし広場です。
小学校あたりからも登れますが、上図の曲輪群+小石垣が見れなくなるのでおすすめしません。
また、今回はこの後、八幡山城と北ノ庄城を攻略予定でしたので、沖島頭山城に行ってませんが、この島をゆっくりされる方は3つの山城を見られるといいかと思います。
■攻略開始
下船して、ケンケン山という案内看板が2,3ありまして、それに従い、沖島コミュニティセンターの裏側からのぼりはじめます。
下写真はのぼりはじめです。このあたりは小曲輪がたくさんあったようで、今は墓地になっています。
尾根にでると高島、比良岳、びわ湖バレイスキー場、比叡山などが見えます。
湖岸付近はこのような石垣が複数あります。
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